第78話 手紙を読む時
ルカは影の欠片を見つめた。それは他の欠片とは違い、不安定な光を放っていた。鉄川の言葉が頭の中で反響する。「選択を誤るな」—それはどういう意味なのだろう。
「ルカさん」
蓮が声をかけた。彼の表情は真剣で、何か決意したように見えた。
「僕も…祖父の研究を通じて、記憶喪失の村のことを知っています。祖父は天候変化と村の異変を関連づけていました。彼は『記憶の波紋』と呼んでいましたが…」
彼は懐中時計を握りしめ、続けた。
「祖父の死にも謎があるんです。天候観測の途中で…突然姿を消したんです。彼が夕霧村で何を見たのか、僕は知りたい」
蓮の言葉には科学への敬愛と神秘への畏怖が混ざり合い、祖父の足跡を辿る決意が込められていた。その表情には、ルカと同じような探求の炎が燃えていた。
ルカはクロを見た。クロの右目の紋様が強く脈打ち、何かを抑えているようだった。彼の手の震えは、自身の過去と向き合う苦悩を物語っていた。
「帰ろう」
クロの声は低く、重かった。「手紙を読む時が来た」
三人は来た道を引き返し始めた。地下鉄建設跡を後にするとき、ルカは振り返った。鉄川の姿はもう見えないが、彼の存在感はまだ空間に残っているようだった。
「ありがとう…」彼女は小さく呟いた。
地上に出ると、雨は上がっていた。空は晴れ、夕日が地平線に近づいていた。影写りの粉を使って現世の記憶を見た蓮は、地図を確認しながら、ノートに記録を続けた。文字は消えることなく、ページに定着した。「祖父の研究の真実」を覗き見た彼の表情には、新たな決意が浮かんでいた。
「影写りの粉の効果は、予想以上です」蓮は感慨深げに言った。「これが祖父が求めていた『記憶の定着剤』なのかもしれません」
彼はノートを閉じ、空を見上げた。「祖父は最後まで、真実を追い求めていたんだと思います。たとえそれが、命を縮めることになっても…」
クロはチクワが待つ写真館に戻るべく、黙々と歩き続けていた。彼の影が夕日に長く伸び、一瞬だけ九つの尾を持つ狐の形に変わったように見えた。右目の紋様は弱く明滅し、彼の内なる葛藤を表していた。今夜、すべてが明らかになる。その予感に、彼の体は微かに震えていた。
ルカは懐中時計を取り出した。針は七時四十三分を指している。一分進んだのだ。それはチヨの封印が弱まっている証拠。胸ポケットの手紙が微かに重みを増したように感じた。
町に戻る道すがら、クロはほとんど口を開かなかった。右目の紋様は落ち着き、青い光はほぼ見えなくなっていた。だが、彼の歩みには重さがあった。何か大切な選択を前にした者の慎重さが感じられた。
「クロ…大丈夫?」
ルカが小さく尋ねた。彼は面の奥から彼女を見つめ、短く答えた。
「ああ。ただ…すべてが明らかになる時が近づいている」
「姉さんのこと?」
彼は答えなかったが、右手が微かに震えていた。彼の眼差しはどこか遠くを見つめ、姿勢からは緊張感が読み取れた。あたかも長い間抱えてきた真実を明かす時が迫っているかのように。
「わたしも…何か思い出した気がする」ルカは小さく呟いた。「姉さんと歩いた小道、村の井戸…でも、なぜだろう。それが本当の記憶なのか、夢なのか…」
何かを隠しているのだろうか。チヨとの繋がり、そして彼自身の正体。すべての謎が、手紙の中にあるのだろうか。
写真館が見えてきた。チクワが窓辺で彼らの帰りを待っているのが見えた。猫の金色の瞳が月明かりのように輝き、ルカたちの無事を確かめるように首を傾げている。その姿はただの猫ではなく、守護者のようだった。チクワの背中の毛が青く光り、尾が九つに分かれて見える瞬間があった。
ルカは静かに決意した。今夜、手紙を開ける。そして、姉を救うための次の一歩を踏み出すのだ。五つの欠片と、写し世の謎が指し示す先に、チヨの姿があることを信じて。
「もう少しよ…姉さん」
彼女は心の中で呟いた。地下の影から得た真実が、彼女の旅路をより明確なものにした。旅の終着点はまだ見えないが、確かな手応えを感じていた。
写真館の門前に立つと、チクワが玄関から飛び出してきた。猫は興奮した様子で彼らの周りを駆け回り、特にルカに寄り添うように鳴いた。その金色の瞳は、まるで彼女の中の変化を感じ取っているかのようだった。
「チクワ、ただいま」
ルカが猫を抱き上げると、チクワは彼女の胸ポケットに鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅いだ。五つの欠片の存在を確かめるように。そして、満足したように喉を鳴らした。しかし、その鳴き声には微かな緊張が混じっていた。
「この子は全部知っているのね」
ルカが呟くと、チクワは彼女の顔を見上げ、一度だけ大きく鳴いた。まるで「その通り」と言っているかのように。
三人は写真館に入り、客間に集まった。ルカはテーブルに五つの欠片を並べた。声、願い、時、光、そして影。それぞれが微かに光を放ち、互いに共鳴するように脈打っている。
「これで…条件は満たされたわね」
ルカは胸ポケットから封筒を取り出した。「ルカへ」という姉の筆跡が、手の震えで揺れて見える。
蓮はノートを開き、記録の準備をした。「このチヨさんからの手紙が、すべての鍵になるんですね」
彼の声には緊張と期待が混ざっていた。科学者としての冷静さと、真実を知りたいという強い願望が交錯している。
クロは窓際に立ち、外を見つめていた。夕暮れの光が彼の姿を照らし、その影が長く伸びている。右目の紋様は弱く明滅し、彼の内面の葛藤を表していた。
「開けるのか」
クロの声は低く、重かった。
「ええ。もう迷わない」
ルカは決意を込めて言った。彼女の手が封筒の封を切ろうとしたその時、チクワが急に飛び上がり、テーブルの上に立った。猫の背中の毛が逆立ち、金色の瞳が青く輝き始めた。
「チクワ?」
猫は低く唸り、玄関の方を見つめた。その瞳は何か見えないものを追っているようだった。
次の瞬間、玄関から物音がした。誰かが来たのだ。
「こんな時間に誰が…」
ルカが立ち上がろうとすると、クロが制止した。
「待て。普通の訪問者じゃない」
彼の右目の紋様が強く輝き、緊張感が部屋に満ちた。蓮の測定器も激しく反応し始めた。
「強い波動を検知しています。これは…」
玄関の扉が開き、そこに一人の老婆が立っていた。
「静江さん!」
ルカは驚いて声を上げた。影向稲荷の巫女、静江が杖を手に、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「よく集めたな、五つの欠片を」
静江はゆっくりと部屋に入ってきた。彼女の周りには、微かな青い光が漂っているように見えた。
「どうして…」
「時が来たからさ」
静江はテーブルの欠片を見つめた。
「そして、その手紙を開ける時も」
彼女は椅子に座り、ルカを見つめた。その瞳には、深い知恵と慈愛が宿っていた。
「読みなさい。チヨが最後に残した言葉を」
ルカは深呼吸をし、震える手で封筒の封を切った。中から一枚の手紙が現れた。和紙に美しい筆跡で書かれた、姉からの最後のメッセージ。
部屋に静寂が訪れた。クロも窓際から戻り、蓮も息を潜めて見守っている。チクワは静江の膝の上に移動し、じっとルカを見つめていた。
ルカは手紙を広げ、ゆっくりと読み始めた。
『愛するルカへ…』
チヨの言葉が、静かな部屋に響いた。それは単なる手紙ではなく、十年間封印されていた真実への扉を開く鍵だった。
鉄川の言葉—「夕霧村の記憶」と「チヨの封印」の繋がり。そして父の姿、母の面影。断片的な記憶が少しずつ繋がり始めていた。写真館へと続く道で、ルカは手紙の内容を想像した。それが彼女と姉を再び結びつける鍵になるのだろうか。
「力には代償が伴う」というチヨの言葉が頭をよぎった。しかし、姉のために、彼女はどんな代償も払う覚悟があった。代わりに失うものは何か—それは次の選択で明らかになるだろう。
夕闇が町を包み込み始め、写し世の記憶がまた一日、静かに時を刻んでいった。そして今、最後の真実が明かされようとしていた。
静江の目に、深い慈愛と同時に、厳粛な覚悟が宿っていた。彼女は知っていたのだ。この手紙を読むことで、ルカの運命が決定的に変わることを。
「すべては、この瞬間のために」
静江が静かに呟いた。その言葉は預言のように、部屋に重く響いた。
チクワの金色の瞳が、夕闇の中で青く輝いた。猫もまた、何かを待ち望んでいるかのように。




