第75話 事故の真相
影から声が聞こえた。それは実体のない、かすかな残響のような声だった。しかし同時に、ルカの頭の中に直接響くような感覚もあった。
「私は橋爪ルカ。夢写師です」
「夢写師…」
影はゆっくりと動き、ルカの方を向いた。その形が次第に明確になり、顔の表情まで浮かび上がった。五十代ほどの男性、真面目そうな表情をした技師らしき人物だ。
「久しぶりだな。お前の父上とは面識があった」
「父と?」
「ああ。彼も一度ここを訪れた。だが、欠片は渡さなかった」
ルカは驚いた。父もこの場所に来ていたのか。何のために? 彼女の心に父の姿が浮かぶ。いつも仕事に没頭していた厳格な男。真剣な表情でカメラを構える父の背中と、暖かくそれを見守る母の笑顔が記憶の片隅によみがえる。父が魂写機を手にルカに微笑みかけながら「写真は心の鏡だ」と語った夜の記憶が鮮明に甦る。けれども、彼もまた欠片を求めていたのだろうか。
「あなたが鉄川修さん?」
「かつてはな」
影は柱の周りを回るように動いた。その足音が聞こえないのが不思議なほど、存在感を持っていた。
「今は…ただの記憶だ。事故の記憶を守るために残された…」
「事故?」
蓮が前に出た。影は彼に注目した。
「お前は…気象観測士の孫か? 目つきが似ている」
「はい、風見柊介の孫です」
蓮は震える声で応えた。祖父の名前が出たことに、彼の装置が再び激しく反応し始めた。
「なるほど。彼も…真実を求めていたな」
影—鉄川修は柱の側面に移動し、そこに留まった。クロは影から距離を取り、静かに状況を見守っていた。その右目の紋様が微かに光を放っている。
「事故の話をしよう。それが私の義務だ」
鉄川の声が変化し、より若く力強いものになった。壁一面が映画のスクリーンのように変わり、過去の映像が映し出される。しかし、それは普通の映像ではなく、影絵のような形で表現されている。モノクロームではなく、色彩が反転した世界—赤いはずのものが青く、明るいはずのものが暗く見える不思議な視覚体験だった。
彼は地下鉄建設の歴史を語り始めた。昭和初期、久遠木の発展計画として始まった地下鉄工事。順調に進んでいたが、予算削減のため安全対策が疎かになった。影絵の中で、工事が急ピッチで進められる様子、安全対策を訴える若い技師(おそらく鉄川)が上司に無視される場面が映し出される。そして、この中央駅建設中に起きた大事故。
崩落事故の場面では、影絵が激しく揺れ、悲鳴らしき音が空間に響いた。ルカの胸が締め付けられるような痛みを感じる。それは単なる映像ではなく、記憶そのものが彼女の感覚に訴えかけてくる感覚だった。奇妙なことに、映像の音声が鮮明に聞こえてくる。木材のきしむ音、土砂の崩れる音、人々の叫び声…それらが重なり合い、空間を満たす。
「真相は隠蔽された」
鉄川の声には怒りが滲んでいた。
「上層部の命令で、事故の原因は『地盤の問題』とされた。だが実際は、安全対策の不備が招いた人災だった」
影絵は会議室の場面に変わり、書類に署名する人々の姿が映し出される。一人の男—若き日の鉄川が立ち上がり、抗議するが、他の者たちに押さえつけられる。その抗議の声が、強く聞こえた。「真実を隠してはならない!」と、情熱的に訴える鉄川の声が、今なお空間に残響していた。
「それで工事は中止に?」
「いや、戦争が始まったからだ。だが、私は…この場所を離れられなかった」
「なぜ?」
「亡くなった者たちの記憶を守るために。彼らの存在が忘れられないように」
ルカはその言葉に、深く頷いた。忘れられることへの抵抗。それは彼女自身が、チヨの記憶に対して抱いている思いでもあった。胸ポケットの懐中時計が、微かに脈打つように感じられた。
「それで…影の欠片を守っているのですね」
「ああ。これは『隠された過去』を司る欠片だ。使えば、歴史の闇を明らかにできる」
「代償は?」
「『集合的記憶』との繋がりだ。特に『記憶をすべて奪われた村』の集合意識」
ルカは眉をひそめた。「記憶をすべて奪われた村」—そんな場所があるのだろうか。その言葉に、彼女は不思議な既視感を覚えた。さらに「夕霧村」という名が心の奥底で響き、胸の奥で知らないはずの井戸の水音が響き、姉との記憶が揺らいだ。チヨと歩いた霧の小道、村の井戸の水音がまた記憶の中で蘇った。心がわずかに揺らぐ。
「どういう意味ですか?」
蓮が質問した。彼は装置を調整し、より詳細な情報を記録しようとしていた。
「霧梁県北部に『夕霧村』という小さな集落がある」
鉄川の影がゆっくりと語り始めた。
「十年前、狐神の力が暴走したとき、その村は完全に記憶を失った。住民全員が、自分たちが誰であるかを忘れた」
クロの体が震えた。その反応に、ルカは彼が何か隠していることをますます確信した。彼の右目の紋様が不安定に明滅し、面の下から苦悩の吐息が漏れる。手が震え、何かを抑え込もうとするような仕草が見られた。
「幸いなことに、それは小さな集落だった。公的記録から抹消され、残された者たちは別の場所に移住した」
「そんな…恐ろしい」
蓮が声を震わせた。彼の測定器が反応し、「記憶の大規模消失」を示す数値が表示された。
「気象観測所の記録にも、その異変についての記述がありました。祖父は『記憶の集団喪失』と呼んでいました」
蓮は懐中時計を握りしめた。「祖父は、その村で行方不明になったんですか?」と小さく呟いた。
鉄川の影が動いた。壁一面の影絵が消え、再び彼の姿だけになる。
「その村の記憶は、この欠片に保存されている。使えば、お前はその繋がりを失う」
「でも…私はその村のことを知らないわ」
「知らなくても、繋がっている。お前の姉の封印によって。チヨは村の記憶も封印の一部に使った」
その言葉に、ルカは息を呑んだ。チヨの封印と村の記憶が関連しているというのか。彼女は自分の中に、何か引っかかるものを感じた。しかし、それは霧の向こうにあるようで、はっきりとは捉えられない。
「父も…この場所を訪れたのね」
「ああ。お前の父は、チヨの封印の後で欠片を探していた。彼はここにも来た。だが、私は欠片を渡さなかった」
鉄川の声には懐かしさが混じっていた。
「彼は『娘を救いたい』と言ったが、代償を払う覚悟はなかった。結局、彼は去っていった」
ルカは胸が痛くなるのを感じた。父も姉を救おうとしていたのか。それなのに…彼らは事故で命を落としてしまった。それなのに、チヨを救うことはできなかったのだ。罪悪感と後悔が彼女の心を満たした。
「そして今、娘が来た」
鉄川の声が彼女の思考を引き戻した。
「お前は父よりも強い意志を持っているようだな」
「私は…姉を取り戻したい」
「その代償を払う覚悟はあるか?」
ルカは沈黙した。村の集合的記憶との繋がりを失うこと。それが具体的に何を意味するのか、彼女には分からなかった。しかし、それは何か大切なものであることは感じ取れた。「夕霧村の記憶を犠牲にして、チヨを救う覚悟はあるのか」—そんな問いが心の中で反響した。




