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第72話 記憶の半減期

町を歩いていると、人々が昨夜の祭りについて話しているのが聞こえた。しかし、その内容は既に曖昧になりつつあるようだ。


「何か光があったよね?」


「うん、でも何だったかはっきり覚えてないな」


「変な夢を見た気がするんだけど…」


クロの言った通り、人々は既に記憶を失い始めていた。空気中には微かな波動が残っており、それが人々の記憶を徐々に消していくように感じられた。


「不思議ですね」


蓮が言った。


「僕もノートに書いた内容が、読み返すと意味が分からなくなってきています」


彼は自分のノートを見せた。確かに、昨夜の出来事について詳細に記録したはずのページが、部分的に空白になっている。まるで文字が消えていくかのように。蓮はペンを取り出し、空白部分に急いで何かを書き込もうとしたが、書いた文字が目の前で薄れていく。


「これは…エントロピーの増大のような現象です」蓮は科学者らしい分析を試みた。「情報が時間と共に散逸していく…祖父はこれを『記憶の半減期』と呼んでいました」


「自然の摂理だ」


クロは淡々と言った。


「記憶は水のようなもの。手で掬おうとしても、指の間から漏れていく」


彼の言葉に、蓮は深く頷いた。


「でも、僕は祖父のように…記録したいんです」


蓮は懐中時計を強く握りしめた。「祖父は最後まで記録を続けました。彼の死の間際のノートには『記憶の保存に成功』と書かれていたんです。でも、その方法は…」


彼は言葉を切り、悲しげに目を伏せた。クロの右目の紋様が一瞬強く輝き、同情するように明滅した。


「それは無理だ。記憶すらない者が、どうやって記録を残せる?」


クロの声には苦い皮肉が含まれていた。彼は空を見上げ、静かに続けた。


「忘れるのは…時に恵みでもある。すべてを記憶し続けることが、どれほど苦しいか、お前には分からない」


その言葉の重みに、ルカと蓮は黙った。クロの言葉には、何か個人的な痛みが滲んでいるようだった。そして彼の右目の紋様がかすかに脈打ち、霧のような青い光を放った。声には一瞬、女性の響きが混ざったように聞こえた。


ルカは二人の会話を聞きながら、チヨの記憶を思い出していた。あの日々は鮮明に覚えているはずなのに、細部はどんどん曖昧になっていく。チヨの笑い声、チヨの話し方、チヨの癖—それらを必死で繋ぎとめようとする自分自身の姿が、どこか哀れに思えた。自分は夢写師だから記憶を保持できるが、それさえも完全ではないのだ。それはチヨを忘れたとき、感情も一緒に閉じ込めてしまったからだろうか。ルカはチヨの笑顔を思い出すたび、胸の奥に抑えた感情が魂写機の力を弱めている気がした。


三人は町の東端に向かって歩いた。住宅地が次第に少なくなり、倉庫や工場の廃墟が目立ち始める。かつての工業地帯だ。小雨が降り始め、辺りを霧のようなもやが包み込んだ。ルカには不思議な既視感があった。この場所を、彼女は以前にも訪れたことがあるのだろうか。それとも写真で見たことがあるのだろうか。


チヨと歩いた霧の小道、村の井戸の水音が頭をよぎり、彼女の心が揺らいだ。それは確かに昔、姉と一緒に来た場所のような気がした。だが、いつ、どんな理由で来たのか、その記憶は霧のように曖昧だった。


「昭和初期、この辺りは発展する予定だったんです」


蓮が説明した。


「久遠木を県の中心都市にするという計画があり、その一環として地下鉄も計画された。でも、戦争が始まり…すべてが中断された」


彼は地図を確認しながら進んだ。雨で紙が濡れないよう、手帳のビニールカバーで保護している。


「祖父の記録には、この計画に別の目的があったと書かれています。『記憶の地脈』に沿って建設することで、写し世との接続点を管理しようとしたのではないかと」


蓮は装置を取り出し、周囲の波動を測定した。「数値が急激に上昇しています。ここは明らかに、写し世との境界が薄い場所です」


「入口はこの先です」


草木が生い茂る丘のような地形の前に、三人は立ち止まった。よく見ると、それは人工的な土盛りで、その側面に鉄格子のドアがある。「立入禁止」の札が下がっているが、すでに錆びていた。


「ここね…」


ルカは周囲を見回した。静かすぎる場所だ。鳥の声も聞こえない。雨が皮膚に当たる感触すら、どこか異質に感じられた。空気に埃と湿気の匂いが混じり、古い記憶が染みついたような重さがあった。遠くから、微かに時間の軋むような低い音が響いてきた。


「ここは時の狭間の入口のひとつだわ」


ルカは小さく呟いた。周囲の空気が不自然に揺れ、時が歪んでいるのを感じる。


「時の狭間?」蓮が興味深そうに訊ねた。測定器の針が激しく振れ、数値が上限を超えようとしている。


「写し世の中心にある空間よ。過去と現在の記憶が交錯する…いわば精神的な空間。普通の人は近づかない方がいい場所」


クロは無言で鉄格子に近づき、錆びた南京錠を一瞬で壊した。彼の力は人間離れしていた。右手から微かな青い光が漏れ、金属が砕ける音は異様に大きく響いた。


「入るぞ」

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