第69話 蓮の記録
現像室を出ると、蓮が心配そうに待っていた。彼は窓際に座り、ノートに何かを書き留めていた。ルカたちを見ると、すぐに立ち上がった。
「大丈夫でした?」彼は神経質そうに眼鏡を直した。「あの光と波動は、私の装置でも記録し切れないほど強力でした。祖父の理論を超える現象です」
「ええ、なんとか」
ルカは疲れた様子で微笑んだ。顔色が青白いことに蓮は気づいたが、何も言わなかった。その思いやりに、ルカは感謝した。
「写真には…何が写っていたんですか?」
「見せられないわ。でも…大切なものよ」
蓮は追及せず、ただ頷いた。彼の理解ある態度に、ルカは感謝の気持ちを覚えた。科学者としての好奇心を抑え、彼女の判断を尊重してくれたことが嬉しかった。
「何か手伝えることはありますか?」彼は真剣な眼差しでルカを見た。「祖父の研究道具ならいくつか持っています。特殊な測定器や…」
「今は休むだけよ。明日は…地下鉄建設跡に向かう予定だから」
「僕も同行させてください」蓮は即座に言った。「気象記録によれば、地下ではさらに強い波動が観測されているんです」
彼はノートを開き、数式を指さした。波線のグラフと、ノートの隅に描かれた地下鉄のスケッチが、彼の理論を裏付けるようだった。
「祖父の理論では、地下空間は記憶の共鳴が増幅される場所なんです。光は反転し、影が主役となる空間で…」
蓮の眼鏡の奥に、祖父への誇りと、謎を解き明かしたいという純粋な探究心が輝いていた。チヨと同じ輝きを持つ目だと、ルカは感じた。
ルカは少し考え、頷いた。彼の科学的な視点は、時に彼女には見えないものを教えてくれるかもしれない。また、蓮の素直な探究心に、チヨの面影を感じることもあった。
「科学と神秘は、本当は一つなのかもしれないわね」彼女は小さく呟いた。
「祖父は…科学で神を測ろうとしたけど」蓮が言った。「僕は科学と神秘の両方を受け入れたい」
彼の瞳には真摯さと、祖父への敬愛、そして未来への希望が輝いていた。ルカは蓮の存在に心強さを感じた。彼は自分とは違う視点を持ちながらも、同じ目標に向かって進んでいる。
その夜、町は興奮と混乱に包まれたまま眠りについた。多くの人々が、祭りで見た光景について語り合っていた。先祖の姿を見た者、過去の記憶が蘇った者、不思議な声を聞いた者。街の空気には余韻が残り、提灯の光が消えた後も、写し世の光が微かに残っているようだった。
写真館では、三人がそれぞれの部屋で休んでいた。クロは客間の窓際に座り、月を見つめていた。彼の右目の紋様が時折、青く輝いている。面の下からは、時折女性の囁き声が漏れていた。狐の面と人間の顔が重なり、その姿が二重に見えることもあった。
「もう少しだ…」彼は囁いた。「すべてが明らかになる時が来る」
クロの右手が微かに震え、その指先から青い光が漏れ出していた。彼は自分の手を見つめ、複雑な表情を浮かべた。狐と人間、男と女、過去と現在—様々な境界が曖昧になりつつあるようだった。彼の体の輪郭が時折薄れ、半透明になる瞬間があった。今夜の儀式が彼の存在自体に大きな負荷をかけたのかもしれない。
蓮は自分の部屋で、ノートに今日の出来事を詳細に記録していた。気象データ、光の波長、時間の流れ、人々の反応…。そして最後に、彼は小さく書き加えた。
「ルカの眼差しが変わった。彼女の中で何かが目覚めつつあるのかもしれない。今夜の現象は、祖父の『記憶波動理論』の核心的証拠となった。科学と神秘が交差する瞬間を目撃した…もはや私の装置では測定しきれない領域に足を踏み入れている」
彼は自分のノートを読み返し、一部の文字が薄れていることに気づいた。あわてて書き直そうとするが、筆跡はますます淡くなっていった。「祭りの光を見て、祖父の死の謎に近づいた」と彼は呟いた。現実世界の記憶がすでに消え始めているのだろうか。しかし、祭りの核心的瞬間の記録だけは鮮明に残っていた。真実を見極める目を持つ者の記録だけが、消えずに残るようだった。
ルカは二階の自室で、現像した写真を見つめていた。チヨの笑顔。そして九つの光。写真から感じる温かさが、彼女の冷えた手を優しく包んだ。その写真は単なる記録ではなく、写し世の力を宿した生きた存在のようだった。
「あと一つ…」
彼女は静かに呟いた。地下鉄建設跡に眠る「影の欠片」。それを手に入れれば、静江からの封筒を開けることができる。そして、何らかの真実に近づけるはずだ。
ルカは写真を机の上に置き、窓辺に移動した。月が久遠木の町を照らし、その光が屋根や木々を銀色に染めている。静かな夜の風が、祭りの余韻を運んでくる。祭りの高揚感の後に訪れる静寂が、彼女の心を落ち着かせた。
「姉を忘れた自分を許せない」彼女は小さく呟いた。その罪悪感が、彼女の感情抑制の根源だったのだろうか。手にした写真を見つめながら、彼女は自問した。「姉を救うために他者の記憶を犠牲にする覚悟はあるのか」
その問いは、これからの旅でも彼女について回るだろう。代償と救済、忘却と記憶、個人と集団—様々な選択を迫られることになる。けれど今夜、チヨの姿を見たことで、彼女の決意は強まった。もう迷わない。どんな代償を払っても、姉を取り戻す。
チクワが部屋に入ってきて、ルカの膝の上に飛び乗った。猫は優しく喉を鳴らし、彼女の慰めになろうとしているようだった。その鳴き声には、かすかに別の音が混じっているように聞こえた—チヨの笑い声の残響のようなそれは、幻聴とも現実とも判断できなかった。チクワの体温が、ルカの不安を少しずつ溶かしていく。
窓の外では、月が高く昇り、久遠木の町を照らしていた。夏至の夜の祭りが終わり、再び日常が戻ってくる。だが、今夜起きたことは、この町の記憶に長く残るだろう。写し世と現世が交わった瞬間。そして、封印されていた記憶が甦る予感。
ルカは写真をしまい、床に就いた。夢の中で、彼女はチヨと共に、かつての祭りに参加していた。二人で写真を撮り、笑い合う。そんな懐かしい光景が、夢の中で鮮やかに蘇っていた。父がカメラを構え、母が二人の髪を撫でる。彼女が忘れていた家族の幸福な一瞬が、記憶の奥から浮かび上がってきた。
「姉さん…必ず見つけるから」
彼女はそう誓いながら、深い眠りに落ちていった。夜風が窓を揺らし、月光がルカの顔を優しく照らす中、チクワは静かに見守っていた。その金色の瞳は、やがて来る試練を予見するかのように、闇の中で輝いていた。
窓の外から漏れ込む月の光に照らされ、チクワの背中の毛は一瞬青く輝いた。猫は耳を立て、まるで遠くから届く声に聞き入るかのように首を傾げた。微かな音の波紋が部屋の空気を震わせ、過去の祭りの反響が最後の一音を残して消えていった。
その姿はただの猫ではなく、世界と世界の境界を見守る守護者のようだった。チクワの目に映るものは、人間には見えない真実の断片。その瞳の中には、チヨの記憶と、来たるべき運命の予感が宿っていた。
窓の外では、月が久遠木の町を照らし、祭りの名残が街角に漂っていた。明日は新たな冒険が始まる。地下の影へと続く旅路。そして、ついに静江からの封筒を開ける時が訪れるのだ。




