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第68話 写真の真実

「くらやみ」に入ると、空気が異様に重かった。いつもより暗く、冷たい。月見窓から差し込む光だけが、室内を照らしている。ルカは魂写機から乾板を取り出し、現像の準備を始めた。手が震える。何かが怖かった。


室内には、普段は聞こえない音が満ちていた。遠い時代の祭りの笑い声、竹筒に注がれる水の音、チヨの囁き声が、現像室の隅々から漏れ出してくるようだった。壁の鏡が微かに揺れ、その表面に波紋が広がっていた。


「これは…ただの祭りの写真じゃない」


クロが言った。「封印の鍵が写っている」


「鍵?」


「ああ。十年前の記憶が、その写真に定着している」


彼の言葉に深い意味が込められていた。右目の紋様が弱く明滅し、その光は以前の強さを失っていた。クロの体からは疲労が伝わってきて、肩の力が抜け、彼が何かの重い疲れを感じているのが分かった。まるで今夜の祭りの力が、彼から何かを奪ったかのようだった。


チクワが現像台に飛び乗り、ルカが準備する乾板を見つめた。猫の瞳が月のように輝いている。その周りを、小さな光の粒子が舞い、過去の記憶の断片が漂っているようだった。


ルカは慎重に現像液を準備した。月見窓からの光がさらに強くなり、室内の鏡が青く輝き始めた。チクワが鏡の前で低く唸る。鏡の表面に波紋が広がり、過去の祭りの光景が映り込んでくる。


「大丈夫だ」


クロの声には珍しく優しさがあった。彼は面を少し上げ、その下から輝く紋様が見えた。右目の紋様だけでなく、彼の顔全体が青い光に包まれていた。


「これは必然だ。今夜のために、すべてが動いていた」


彼の声に力強さは残っていたが、体は疲労で震えているようだった。月の光の下で、彼の輪郭が時折ぼやけ、半透明になる瞬間もあった。今夜の儀式が、彼自身の存在にも影響を与えているようだった。


ルカは深呼吸し、乾板を現像液に浸した。液体が乾板を包み込み、徐々に像が浮かび上がってくる。現像液から青い煙のようなものが立ち上り、鏡に映り込んでいく。チクワが鏡を見つめ、前足を鏡面に当てた。その瞬間、鏡面に映る像が鮮明になり、音の波紋が部屋中に広がった。


最初は境内に集まる人々の姿。しかし、その間に半透明の人影が見える。そして中央に…


「チヨ…」


姉の姿がはっきりと写っていた。白い小袖に緋の袴。笑顔で手を広げている。そして彼女の背後には、九つの小さな光。それぞれが異なる色を放っている。チクワが鏡に映る写真のチヨの姿に向かって低く鳴いた。その声には懐かしさと切なさが混じっていた。


「これは…欠片?」


ルカは息を呑んだ。これが今夜の異変の原因だったのか。写し世の記憶が、この写真を通じて現世に漏れ出してきたのだ。


「でも、どうして今夜…」


「十年の周期だ。そして、お前がすでに四つの欠片を集めている。それが引き金になった」


クロが答えた。彼の声は確かだったが、右手が微かに震えていた。紋様の青い光が顔の輪郭を照らし、クロの表情の一部が見えた。それは若い男性の顔だったが、どこかチヨに似ている。目元の優しさ、口元の決意。そこには青年の痛みと、少女の慈しみが混ざっていた。


現像が進むにつれ、写真はさらに鮮明になっていく。チヨの姿だけでなく、彼女の表情までがはっきりと見えるようになった。そして、彼女の口元から言葉が聞こえてくるような錯覚を覚えた。


「ルカ…もう少しよ…」


それは実際の声ではなく、心の中に直接響く言葉だった。その声の波紋が広がり、現像室の木製の床が振動し、チヨのいた頃の足音が蘇ったかのように響いた。ルカは涙を堪えながら、写真を見つめ続けた。


チクワが現像台の上で円を描くように歩き、やがてチヨの姿を指すように片足を伸ばした。その瞳が写真を映し、さらに鏡に反射して、部屋全体が金色の光で満たされる。神秘的な雰囲気の中、時間の軋む音と遠い祭囃子の調べが静かに融合していった。


「彼女も姉の存在を感じているんだな」クロが言った。「チクワとチヨには、特別な繋がりがある」


幼い頃のルカとチヨが、この猫を拾った日の記憶が蘇った。チクワはいつも姉の方に寄り添い、金色の瞳を向けていた。まるで特別な何かを感じ取っていたかのように。


「チクワは影向稲荷の使者だ」クロは静かに告げた。「夢写師の記憶を守るために送られた。だから彼女はチヨの力に反応する」


クロが窓際に立ち、月を見上げた。その右目の紋様が青く輝き、彼自身もそれに気づいているようだった。


「今夜の私は、少し不安定だ。月の力が…私の中の何かを呼び覚ます」


彼の声には不安と期待が混ざり合っていた。その声は少しずつ二重音になり、面の下から女性の声が漏れ出しているようだった。「チヨの声が俺を縛る」と彼は小さく呟いた。月明りを受けた彼の影が壁に落ち、ゆっくりと九尾の狐の形に変わっていった。彼の体が震え、右手を握りしめては開く動作を繰り返した。内なる葛藤をあらわにする仕草だった。


現像が完了し、ルカは慎重に写真を乾かした。完成した写真は、通常の写真とは明らかに違っていた。普通の目には、単に祭りの集合写真にしか見えないだろう。だが、夢写師の目には、その奥に隠された真実が見えた。


九つの光が写真の中で輝いていた。すでに手に入れた四つの欠片は、微かに色あせて見えるが、残りの五つは鮮やかに光っている。そしてその中央に立つチヨの姿。彼女の笑顔には、悲しみと希望が混ざっていた。背後には父と母の姿も透けて見え、家族の絆が写し出されていた。


「これをどうするの?」


「保管しておけ。最後の欠片を見つけた後で、必要になる」


クロは面を少し下げ、紋様を隠した。その声は女性の声と混ざり合い、何かを抑えようと苦闘しているようだった。「彼女を救うためなら俺は消えてもいい」と彼は耳に届くか届かないほどの声で呟いた。彼の肩の力が抜け、疲労が全身から伝わってきた。今夜の儀式は、彼の存在自体を消耗させたのかもしれない。


ルカは頷き、写真を特別な封筒に入れた。封筒は古めかしい和紙でできており、保存用の朱印が押されている。心の中では、まだチヨの言葉が響いている。


「もう少し…」


何がもう少しなのか。欠片をすべて集めることか、それとも別の何かか。封筒には淡い光が宿り、中の写真が生きているように感じられた。


チクワが窓台に飛び乗り、月を見つめた。その姿が影となって壁に映り、まるで大きな狐の影のように見えた。光の反射で、猫の影がさらに形を変え、九本の尾を持つ狐の影へと変わっていく。その神秘的な変化に、ルカは息を呑んだ。


現像室の壁の鏡には、まだチヨの姿が映っていた。鏡の表面が水面のように揺れ、その向こうに見える世界は、写し世そのものだったのかもしれない。

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