第67話 クロの消耗
「写し世が漏れている!」
クロの声が聞こえた。彼は月明かりの中、黒い影のように台に駆け寄った。彼の右目の紋様が明るく輝き、声は女性のような音色を含んでいた。面の下から青い光が漏れ出し、その姿が二重写しになっているようだった。
「急いで最後の一枚を撮れ。そうすれば安定する。写祓の写真が写し世の記憶を定着させ、境界の揺らぎを抑えるんだ」
クロはルカの肩に手を置いた。その接触で、ルカの頭痛は一瞬だけ和らいだ。彼の手から、チヨの温もりのような感覚が伝わってきた。彼の手も人間のものとは少し違う、微かな毛が生えた狐の手のようだった。
「封印の力で一時的に現世に干渉できる」とクロは低く呟いた。その瞳は青く輝き、狐の面の下で何かが動き、変化しつつあるように見えた。
「でも、この揺れでは…」
「構わない。撮るんだ。お前なら…できる」
クロの声には信頼と焦りが混じっていた。その声にチヨの調子が混ざり、面の下から青い光が漏れ出していた。彼の右手は激しく震え、感情の波に耐えているようだった。月光の下で、彼の体の輪郭が時折ぼやけ、半透明になることもあった。内なる葛藤の表れだろうか。
「みなさん、もう一度だけ…」
彼女の声は震えていたが、人々は混乱の中でも彼女に注目した。彼らは何かがおかしいと感じつつも、祭りの伝統と、夢写師への信頼から、彼女の指示に従った。
一瞬だけ躊躇し、チヨの姿を見つめるルカ。姉は静かに頷き、彼女を励ますように微笑んでいた。その表情には信頼と愛情が、そして少しの悲しみも混じっていた。
「姉さん…」ルカは小さく呟いた。
ファインダーを覗くと、そこはもはや境内の光景ではなかった。写し世と現世が完全に混ざり合い、過去と現在の人々が同じ空間に存在している。祭りの記憶が重なり、何十年もの儀式が同時に行われているかのようだった。
その中央に、鮮明なチヨの姿があった。彼女はルカを見つめ、手を差し伸べていた。「ルカ…私を…記憶から…」その声ははっきりと聞こえないが、心に直接響いてくるようだった。
「姉さん…」
ルカはシャッターを切った。カシャリ。
強烈な閃光が走り、魂写機から青白い光の筋が天に向かって伸びた。境内全体が一瞬、別の次元に引き込まれたような感覚があった。人々は悲鳴を上げ、中には気絶する者もいる。光の波と共に、音の渦も広がり、祭囃子の音色が過去の音と融合し、時間の波紋となって境内じゅうに響き渡った。
光の中で、ルカはチヨの声をはっきりと聞いた。
「ルカ…もう少しよ…記憶を、忘れないで…」
そして、静寂が訪れた。
光が消え、通常の月明かりだけが境内を照らしている。人々は混乱し、周囲を見回していた。台の上のルカは、魂写機を抱えたまま立ちすくんでいた。
「橋爪さん!大丈夫ですか?」蓮が群衆の中から駆け寄った。彼の装置は完全に振り切れ、一部は機能を停止していた。「信じられないデータが記録されました!これは祖父の理論を超える現象です!」
「何が起きたの…」
「あんな光、見たことない」
町民たちの間で混乱が広がる中、神主が急いで台に上がってきた。
「橋爪さん、大丈夫ですか?」
ルカは虚ろな表情で頷いた。彼女の顔から一筋の涙が伝っていることに、蓮は気づいたが、何も言わなかった。その目は通常の茶色から、一瞬だけ青く輝いていた。
「はい…でも、カメラが…」
手にしていた魂写機が、熱を持ったように熱くなっていた。レンズが青く輝き、カメラ内部で何かが反応しているようだった。その中から、微かにチヨの笑い声が響いてくる。まるでカメラの中に封じ込められたかのようだった。
「すぐに現像しなければ」
神主は厳しい表情で言った。
「この写真は、今夜必ず現像しなければならない。さもないと…」
彼は言葉を切った。しかし、その意味は明らかだった。今、撮影された写真には何か重要なものが写っている。それを定着させないと、危険な事態になる可能性がある。
「わかりました」
ルカはカメラを抱え、台から降りた。体が異様に重く感じられた。蓮が心配そうに彼女に駆け寄ってきた。
「ルカさん、大丈夫ですか? あの光は…私の測定器ではあり得ない数値です。電磁波のスペクトルを超えた何かが発生しました。これは祖父の理論を証明するものですが、同時に…未知の可能性も示しています」
「わからないわ。でも、すぐに現像室に戻らないと」
クロはルカの様子を見て、一瞬躊躇したようだったが、彼女から魂写機を受け取った。その重さに、彼も驚いたように面を傾げた。右目の紋様は弱く、不安定に光っていた。今にも消えそうなほど弱々しい光だった。
「これは…中に何かが閉じ込められている」
彼の声には疲労が滲み、右手は自分の意志と無関係に震えているようだった。面の下からは、焦りと不安が混ざった表情が垣間見えた。
三人は急いで写真館に向かった。途中、まだ混乱する町民たちの姿が見えた。誰もが今夜起きたことの意味を理解できずにいる。ところどころで、「先祖の声が聞こえた」「昔の祭りが見えた」といった会話が聞こえてくる。
蓮は歩きながらもノートに記録を続けていた。「記憶の波動は予想を超える強度で発生し、写し世と現世の境界は一時的に消失…これは祖父の『時の逆行』理論の核心に迫る現象です。彼が命を懸けて研究していたことが、今夜証明されたのかもしれません」
写真館に戻ると、チクワが異様に落ち着かない様子で彼らを出迎えた。猫は興奮した様子で、現像室の方向を見ては鳴いている。その瞳は月明かりのように金色に輝いていた。背中の毛が逆立ち、まるで青い炎を灯しているようにも見えた。
「彼も感じているようだね」
クロが言った。「写し世の揺らぎを」
ルカは急いで現像室に向かった。
「風見さん、申し訳ないけど、ここからは一人で行くわ」
「ええ、わかります」
蓮は頷いた。しかし、その表情には明らかな心配の色が見えた。彼は脱いだ上着をルカに差し出した。
「寒くなるでしょう。もし何かあれば…」彼は懐中時計を握りしめた。「何でも言ってください」
彼の装置を手に取り、指針が振り切れていることを確認した。「これは驚異的な記録です。祖父が探し求めた『記憶の波動』の実証データです。あなたのおかげで祖父の研究を一歩前進させることができました」
ルカは感謝の微笑みを見せた。それは今夜初めての、心からの笑顔だった。
「ありがとう」
ルカが現像室へと向かうと、チクワが従った。クロも無言で後に続く。彼の足取りは重く、まるで大きな負担を背負っているかのようだった。右目の紋様は弱まり、時々消えそうになるほど暗くなることもあった。




