第66話 チヨの囁き
彼女の心拍が早くなり、手が震えた。集中しようとしたが、頭の中に知らない記憶の断片が浮かび上がる。笑う少女、祭りの提灯、誰かの手…写し世の波紋が彼女の記憶に干渉し、一瞬、思考が混乱した。
「これは…」
ルカは深呼吸をし、冷静さを保とうとした。これが影写りの祭りの本質なのか。現世と写し世の住人が、同じ場所に集まる瞬間。彼女の内側で何かが変化し始め、感覚がより鋭くなるのを感じた。
「皆様、もう少しだけ…」
彼女の声が震えていた。ピントグラスの中で、影がさらに鮮明になっていく。人々が集まる場から、遠い囁き声が聞こえてくる。記憶の中の声、写し世の住人の声が混じり合い、時間の軋む音が低く響く。
そして、群衆の真ん中に見覚えのある姿が現れた。
「姉さん…?」
ファインダーの中で、チヨとおぼしき姿が微笑んでいた。白い小袖に緋の袴。まさに、ルカが今着ているのと同じ装束だ。チヨは直接ルカに向かって微笑み、口を動かしている。何かを伝えようとしているようだった。
「ルカ…選んで…」
かすかな声が心に直接響いた。その声は風のようであり、水のようでもあった。伝えようとしている言葉の意味を、ルカは理解しようとした。選ぶ?何を選べばいいの?
ルカの胸が締め付けられるように痛んだ。彼女の視界が一瞬、涙で曇る。それでも彼女は決意を固め、カメラのシャッターに手をかけた。姉の声が心の中で彼女を導くように、「今」と囁いた気がした。
「撮ります!」
シャッターを切る。カシャリ。
その音と共に、境内全体が一瞬、青白い光に包まれた。ピントグラスが閃光のように明るく輝き、ルカは思わず目を閉じた。光の閃きと同時に、強烈な音の波も広がった。太鼓の低音、提灯の揺れる音、過去の祭りの笑い声が一斉に響き、人々からどよめきが起こる。
この一瞬、写し世と現世の境界が完全に消え、両者が融合したように感じられた。ルカの感覚も変容し、人々の記憶が色彩を伴って見えるようになった。それぞれの人の頭上に、過去の自分自身の姿が重なり、幾重にも層を成す記憶の光が広がっていた。
「見えた! 影が見えた!」
「先祖の姿が…」
「あの光…なんて神々しい!」
町民たちは興奮して声を上げている。彼らにも何かが見えたようだ。普段は写し世を見ることのできない人々にも、今夜は何かが見えているのだ。やがて、一部の人々は眩暈を感じたように揺らぎ、友人や家族に支えられていた。写し世の波紋が、一時的に彼らの感覚を揺さぶったのだ。
蓮は群衆の中から、懐中電灯のような光を頼りにスケッチを続けていた。彼の表情には興奮と驚きが入り混じっていた。科学者としての冷静さを保ちながらも、目の前の現象に心を奪われていることがわかった。彼の測定器は針が振り切れるほど反応し、ノートへの記録は急いで走り書きされていた。
「これは…祖父の記録と一致する!記憶の波動が実体化する瞬間だ!光の波長=記憶の振動数…祖父は正しかった!」
彼の声には純粋な喜びと、祖父の遺志を継ぐことへの誇りが溢れていた。「これは科学と神秘の融合点だ…祖父が生涯をかけて探し求めたものだ!」
ルカは再び魂写機を構え、二枚目の写真を撮ろうとした。だが、乾板を入れ替える手が震え、彼女は深呼吸をした。ファインダーを覗くと、さらに多くの影が町民たちの間に現れている。そして、今度はチヨの姿がさらに鮮明になり、彼女の背後には七色の光が輝いていた。
「これは…欠片?」
チヨの背後に浮かぶ七色の光の中に、彼女はこれまで集めてきた欠片と同じ青い輝きを認めた。チヨは現在のルカだけでなく、過去と未来のルカをも見ているように思えた。彼女は何か言おうとしているようだった。ルカは唇の動きを読み取ろうとする。「もう少し…来て…」
彼女の手が震えた。シャッターを切ろうとしたその瞬間、境内全体が揺れ始めた。チヨの囁き声—『ルカ、選んで』—が反響した。
「何が…」
人々が混乱し始める。地震ではない。何か別のものが、現実を揺るがしている。台の上のルカは、頭に激しい痛みを感じた。記憶の断片が一瞬混乱し、彼女は目の前がくらくらとした。
境内一帯に異変が生じていた。提灯の灯りが青く変色し、鳥居の赤が濃くなり、地面の色が反転する。写し世の色彩が現世に漏れ出し、両者の境界が崩れかけていた。人々の周りのオーラが強まり、中には過去の自分自身が重なって見える者もいた。




