第65話 祭りの始まり
日が落ち始め、境内に提灯が灯された。鳥居には過去の巫女の影が鏡のように映り、淡く揺らめいている。ルカは台の上で魂写機の準備をしていた。彼女が乾板をセットしたとき、一瞬だけピントグラスに知らない少女の笑顔が映ったような気がした。思わず息を飲む。
「何か見えました?」台の下から蓮が尋ねた。
「…いいえ、気のせいよ」
彼女は言葉を濁したが、実際には確かに何かを見た。写し世の記憶が、今夜はいつもより鮮明に漏れ出しているようだった。
月が昇り、その光が神社全体を銀色に染めていく。クロは境内の隅に立ち、月を見上げていた。彼の右目の紋様が青く輝き、その輝きは次第に強さを増していく。面の下から微かに囁き声が漏れ出し、彼の身体が二つの存在の間で揺れているようだった。チクワも月に向かって鳴き、その背中の毛が青く光った。
「そろそろだ…」彼は囁いた。その声は男性と女性の声が混ざり合ったような響きを持っていた。
蓮はこの様子を注視し、急いでノートに記録していた。「クロさんの声の波形が変化しています。二重の周波数...これは祖父が『魂の共振』と呼んだ現象かもしれません」
人々は神社の中央に集まり始めた。クロは月を見つめたまま、静かに続けた。
「ルカ…今夜、お前は姉の試練を受ける」
その言葉が何を意味するのか、ルカには分からなかったが、胸の奥で何かが震えるのを感じた。「チヨが祭りで封印を行った」という静江の言葉が記憶によみがえり、彼女は大きく息を吸い込んだ。撮影が試練になる予感がする。
彼女の手が微かに震え、胸ポケットの欠片たちが共鳴するように温かさを放った。写し世と現世の境界が薄れる中、欠片の力も強まっている。
境内を取り囲む木々が風に揺れ、その影が過去の記憶のように伸び縮みする。提灯の灯りが青白く変色し、写し世の光と混ざり合っていた。
「では、始めましょう」
神主の声が境内に響き、儀式が始まった。まず、巫女たちによる神楽が舞われ、次に神主による祝詞が奏上される。祝詞の言葉が空気を震わせ、境内全体が浄化されていくような感覚があった。そして、いよいよ写真撮影の時間になった。
ルカは台の上に立った。彼女が巫女装束で撮影を行うのは初めてだ。これまでは、祖父や父、そしてチヨがこの役目を担っていた。彼女は深呼吸し、心を落ち着かせようとした。
台の上から見る境内は幻想的だった。月光を浴びた人々の姿が銀色に輝き、その周りには感情のオーラが漂っていた。提灯の光が月の光と混ざり合い、現実と写し世の境界が溶け合っているように感じられた。
「みなさん、こちらを向いてください」
ルカは群衆に呼びかけた。数百人の町民が、笑顔で彼女の方を向く。ファインダーを通して見る彼らの姿は、普段とは違って見えた。それぞれの人の周りに、記憶と感情のオーラが色彩豊かに広がっている。月光が彼らを照らし、幻想的な雰囲気が漂っている。蓮は群衆の中で、メモを取りながらも、ルカを見守っていた。チクワは落ち着かなく鳴き、ルカの足元で低く唸り、境内の隅に立つクロに向かって警告するように金色の瞳を光らせた。
「はい、じっとして…」
ルカがピントグラスを覗くと、奇妙なことが起きた。ガラスに映る人々の間に、半透明の人影が見えたのだ。まるで写し世の住人たちが、町民たちと共に写真に写り込もうとしているかのように。
過去の祭りの記憶が現在に漏れ出し、両者が重なり合っていた。子どもたちの笑い声と、昔の祭りの太鼓の音が混じり合い、時間が層を成す響きとなって広がる。




