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第62話 久遠木への帰還

祭りは記憶の再現。繰り返される儀式の中に、先人たちの祈りと知恵が宿る。忘却に抗う、静かな抵抗。


「久遠木に戻るんですか?」


風見蓮が尋ねた。三人は山中の廃教会を後にして一夜を野営で過ごし、帰路についていた。朝霧が徐々に晴れ、山道の先に久遠木の町並みが見え始めている。湿板を入れた鞄を大切そうに抱えた蓮の眼鏡に朝日が反射していた。その瞳には好奇心と冒険への興奮が宿っていた。


「ええ。次の欠片を探す前に、少し準備が必要なの」


ルカは答えた。四つの欠片を持ちながらも、彼女はまだ一つしか使っていない。声の欠片だけが消費され、願いの欠片、時の欠片、光の欠片はまだ手つかずのままだ。彼女の胸ポケットが重く、欠片たちの存在を感じる。それぞれの欠片が共鳴するように脈打ち、微かな温もりを放っていた。


欠片に触れるたび、失われた記憶の断片—両親との最後の会話、初恋の記憶、チヨの見た最期の夢、そして光の欠片で失った「隠された真実の記憶」—が痛みとなって胸に染みる。それでも、この旅を続ける決意は揺るがなかった。


「それに、今夜は『影写りの祭り』だから」


「影写りの祭り?」


蓮の目が好奇心で輝いた。彼は小さなノートを取り出し、何かを走り書きした。その手つきには科学者の鋭い観察眼と、子どものような純粋な興奮が混ざり合っていた。


「私も聞いたことがあります。霧梁県の夏至の祭りですよね? 祖父の観測記録にも特別な項目がありました。『記憶の波動が最も強まる夜』と…」


彼はノートのページをめくり、そこに書かれたグラフを指さした。波線の頂点に赤いマークがあり、「夏至・記憶共鳴点」と書き込まれていた。その横には月の満ち欠けと霧の濃度の関係を示す複雑な数式が並んでいた。


「祖父の研究によれば、この夜は写し世と現世の境界が最も薄くなる。気象データと集団的記憶の相関関係が数値的に証明できるんです」


彼は数ページめくると、色あせた気象図を見せた。それは十年前の夏至の夜の霧梁県上空の気圧分布図で、中心から放射状に広がる異常な低気圧の模様があった。


「これは十年前、チヨさんの封印の夜の観測データです。祖父は『史上最強の記憶波動』と記録しています。科学的に見ても異常な現象だったんですね」


彼の声は興奮と敬意に満ちていた。科学的なデータで超自然現象を説明しようとする姿勢は、物事を異なる視点から捉える彼の特性を表していた。


「そう。毎年夏至の夜に行われる、影向稲荷の大祭よ」


ルカは説明した。「影写りの祭りは、記憶を共有し、定着させる儀式。八百年前から続く伝統なの」


彼女の言葉に、蓮はますます興味を示した。彼のノートには「集合的記憶の儀式化」という見出しが追加された。


「ところで、この祭りの目的は何なんですか?」蓮が熱心に尋ねた。


「八百年前、霧梁県を大飢饉が襲ったとき、村人たちの集合的記憶を写し取り、神に捧げることで災いを封じたという」ルカは昔から聞かされていた言い伝えを話した。「それ以来、毎年夏至の夜に写し世と現世の境界が薄くなる時、町の人々の記憶を写し取って、影向稲荷に奉納しているの」


「つまり、夢写師の役割は…」


「町の記憶の守り手として、記憶を定着させること。それが祖父や父、姉、そして私の役目よ」


クロが突然足を止め、久遠木の方向を見つめた。その右目の円形紋様が微かに青く輝いている。紋様の光は風に揺れる炎のように不安定で、何かに反応しているようだった。


「今夜は特別だ。十年ぶりの…強い月だ」


その声には珍しく緊張が滲んでいた。低く震えるような声色に、内面の不安が表れていた。ルカは思わず彼の顔を見上げた。黒い狐の面の向こうに、何か懐かしいものを感じる。紋様の光が強まると、面の下から微かに女性の囁きが漏れたようにも聞こえた。


「クロ?」


「…何でもない」


彼は面をわずかに直し、歩き始めた。その動作には不自然さがあり、何かを押し込めようとしているかのようだった。ルカには、彼が何か重要なことを隠しているように思えた。「重要なことは祭りの後に」と彼は小さく呟いた。


遠くで、時間の軋むような低音が微かに響き、彼女の耳を震わせた。朝霧の中に、過去の歩み声が隠れているような錯覚。風に乗って、遠い祭囃子の音色が幽かに聞こえてきた。それは記憶の中の音か、実際の音か、区別がつかなかった。


チクワは先を行き、時折振り返っては金色の瞳をルカに向けた。その毛並みが朝の光を受けて一瞬青く輝いた。猫の足跡は露を滲ませる草地に星形の跡を残し、それらは歩くたびに新しい模様を作りだしていく。

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