第61話 巫女の目覚め
「成功したね」
ジョセフが微笑んだ。彼の目には誇りに似た感情が浮かんでいた。
「あなたは真の夢写師だ。写し世の記憶を見るだけでなく、自分自身の記憶と向き合う勇気を持つ者」
彼はルカに近づき、彼女の肩に手を置いた。
「記憶は時に痛みをもたらす。だが、それを受け入れることで、人は成長する。チヨもそれを知っていたのだろう」
クロが近づいてきた。彼の右目の紋様は穏やかに輝き、彼自身も何かを理解したかのように見えた。
「お前は強くなった」彼はルカに告げた。「チヨも...喜んでいるだろう」
その言葉には珍しい温かさがあり、ルカは思わず微笑んだ。クロの本当の姿はまだ謎に包まれているが、その存在が次第に彼女にとって大切なものになっていることを感じていた。右目の紋様が脈打つように明滅し、クロの面の下で何かが揺れ動いているかのようだった。彼の手がわずかに震え、内面の葛藤を物語っていた。
蓮は彼女の変化に気づいたようだった。彼の目には驚きと敬意が浮かんでいた。
「何か...変わりましたね」彼は静かに言った。「光があなたの周りに」
彼は小さな測定器を取り出し、数値を確認した。「祖父の予測通りです。記憶の波長が安定化し、新たな共鳴点が生まれています。これを『光の共鳴』と呼ぶべきでしょうか」
「感じるんですか?」
「はい、科学では説明できないかもしれませんが...」彼は恥ずかしそうに微笑んだ。「祖父なら、きっとそれを『記憶の波動の共鳴』と呼ぶでしょう」
ジョセフはルカの手にある欠片を見つめた。
「これで四つ目だ。あと一つで、封筒を開ける資格が得られる」
彼の言葉に、ルカは驚いた。
「どうして知っているんですか?」
「影向稲荷の神主から聞いた。チヨは賢い子だった。彼女はすべてを計算に入れていたんだよ」
ジョセフは古い写真を取り出した。そこには若いジョセフと日本人の女性、そして少女のチヨが写っていた。写真の中のチヨは微笑み、カメラに向かって手を振っている。
「私の妻と私は、彼女を知っていた。影向稲荷で出会ったんだ」
ルカは写真を見て、胸が締め付けられる思いがした。それは彼女の知らないチヨの姿だった。写し世の力に目覚める前の、純粋な少女の姿。
「姉さんは、なぜ...」
「彼女には特別な力があった。写し世と直接対話する能力だ。しかし、それは大きな責任も伴う」
ジョセフは遠い目をして、続けた。
「彼女は狐神の暴走を感じ取った。霧梁県の記憶が危険にさらされていることを」
「暴走?」
「ああ。記憶を飲み込み始めた狐神。それを止めるため、チヨは自らを犠牲にした」
クロの体が震えた。その反応に、ルカは彼が何か隠していることをますます確信した。
「次は影の欠片だな」ジョセフはルカに告げた。「地下鉄建設跡で待っている。影の欠片は"隠された過去"を司る。手に入れれば、あなたは真実に一歩近づく」
「だが、代償は重い」クロが続けた。
「"村の集合的記憶との繋がり"を失う」
ルカは考え込んだ。夕霧村—彼女はその場所と何らかの繋がりがあるのだろうか。集合的記憶との繋がりを失うとはどういう意味なのか。それでも、チヨを取り戻すために、次の一歩を踏み出す覚悟はあった。
「受け入れます」彼女は静かに言った。「代償を払ってでも、姉を取り戻す。そして、もし夕霧村の人々が記憶を失っているなら...彼らのためにも何かできるかもしれない」
ジョセフは満足したように頷いた。
「その気持ちが大切だ。記憶というのは単なる過去の断片ではない。それは自己の根幹であり、未来を作る材料でもある」
彼は壁に飾られた古い写真を指さした。そこには夕霧村と思われる小さな集落が写っていた。山々に囲まれた平和な村の様子。農作業をする人々、祭りを楽しむ子どもたち。
「この村は霧梁県の北部にある。記録上は存在しないが、実際には今も人々が暮らしている。彼らは自分たちの過去を忘れたまま、時間の外に置かれているようなものだ」
「いつか...彼らの記憶も取り戻せるのでしょうか」
「それがお前の旅の真の目的かもしれんな」ジョセフは穏やかに微笑んだ。「チヨを救うことは、村を救うことでもある。すべては繋がっている」
蓮が静かに前に出て、ジョセフに尋ねた。
「祖父は夕霧村で何を発見したのでしょうか?彼の最後の日記には『記憶の共鳴点が最大化した場所』と書かれていました。そして彼はそこで『時の逆行』に関する測定を行ったようです」
ジョセフは考え込むように目を細めた。
「彼は時間と記憶の関係性を探っていた。その研究は危険な領域に達していたかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「写し世の力は、使い方を誤れば命を奪う。彼の死因は...」
ジョセフは言葉を切った。「それは別の旅の課題だろう」
ルカは光の欠片を胸ポケットに入れた。既に声、願い、時の欠片を持っており、これで四つ目だ。胸ポケットが温かく脈打つような感覚があった。
「もう遅い。今夜はここで休んでいくがいい」
ジョセフは彼らを地下室の奥へと案内した。そこには質素だが清潔な寝床が用意されていた。「明日の朝、地下鉄建設跡への最短ルートを教えよう」
三人は感謝してその申し出を受けた。クロは教会の隅に座り、瞑想するような姿勢を取った。彼の右目の紋様は弱く明滅し、彼の思考が遠くに向かっているようだった。チクワはルカの足元に寄り添い、安心したような表情で丸くなった。
蓮はノートに今日の出来事を記録していたが、ふと顔を上げてルカに微笑みかけた。
「不思議ですね」彼は静かに言った。「祖父が亡くなる前、『青い瞳の少女に会いに行く』と言ったことがあります。当時は何の意味か分かりませんでしたが...」
ルカは彼の視線に気づき、少し戸惑った。
「私の目は青くないわ」
「今は違います」蓮は真剣な表情で言った。「でも、欠片を手に入れた瞬間、一瞬だけ...あなたの目は青く輝いていました」
彼女は驚いて瞬きをした。自分の目が青く輝いた?そんな経験は初めてだった。かすかな記憶が蘇る。チヨの目が青く輝くことがあったこと。それは彼女が写し世と対話するときだった。
「影写りの巫女の証だ」離れた場所からクロの声が聞こえた。「チヨも同じだった。写し世の力を使うとき、目が青く変わる」
彼の言葉には、隠せない苦しみの色があった。右目の紋様が不規則に明滅し、何かの記憶に苦しむかのように面の下で表情が歪んだ。彼の右手がわずかに震え、拳を握りしめて感情を抑え込もうとする仕草が見えた。
ルカは思わず手で顔に触れた。自分の中に眠る力が少しずつ目覚めつつあるのだろうか。感情を解放したことで、チヨのような力が目覚め始めているのかもしれない。
「私は...姉のようになれるのかな」
彼女の呟きに、クロは答えなかった。だが、彼の右目の紋様が強く輝き、何かを伝えようとしているようだった。
蓮はルカの変化を見つめ、その表情には畏敬の念が浮かんでいた。彼のノートには「青い瞳の現象」と題されたページが開かれ、そこにはルカの姿のスケッチが描かれていた。科学者としての鋭い観察眼と、超自然現象への純粋な好奇心。それらが混ざり合った彼の視点は、ルカにとって新鮮な鏡のようだった。
「科学と神秘は、究極的には一つなのかもしれませんね」蓮は穏やかに言った。「祖父はそれを証明しようとしていたのだと思います」
彼はバッグから小さな測定器を取り出し、慎重にルカの周りの空気を調べた。「信じられないほど強い共鳴波形です。これは通常の電磁波では説明できない反応ですが...祖父の研究に従えば、『記憶の波紋』と呼ばれる現象かもしれません」
ルカは頷いた。科学者の孫と夢写師の孫。異なる道を歩みながらも、ここで出会ったのは偶然ではないように思えた。
「明日、地下鉄建設跡へ向かいます」ルカは決意を新たにした。「そして、五つ目の欠片を手に入れたら...」
「静江さんからの封筒を開ける」クロが言った。「チヨからのメッセージだ」
ルカは深く息を吸い込んだ。明日が来るのが待ち遠しくもあり、同時に怖くもあった。姉の言葉を読む時が、いよいよ近づいている。
教会の中に静寂が広がる中、ステンドグラスからの月光が彼らの上に降り注いでいた。様々な色の光が床に落ち、過去と現在が交錯する美しい模様を描いている。チクワが安らかに眠る中、ルカも少しずつ眠りに落ちていった。
彼女の夢の中で、光の道が広がっていた。その先には、白い着物を着たチヨの姿。姉は微笑み、手を差し伸べている。「もう少し...来て...」と囁く声が聞こえた。夢の中でさえ、失われた記憶の痛みを感じながらも、ルカは姉に向かって一歩ずつ近づいていった。
「待っていて、姉さん。きっと会いに行くから...」




