第59話 夕霧村の悲劇
「しかし、霧梁県にはもう一つ特別な場所がある」ジョセフは地図の北部を指さした。「夕霧村。十年前の封印以来、村人たちは自分たちの記憶を失っている。村の名前すら、公的記録から消えた」
ルカとクロは顔を見合わせた。夕霧村—それは初めて聞く名前だった。村全体が記憶を失うとは、どういうことだろう。
「記憶を...失った村?」
「ああ。チヨの封印の代償だ。狐神の暴走を止めるため、村の集合的記憶が犠牲になった」
その言葉に、ルカの胸に痛みが走った。姉の封印は、一つの村の記憶を奪ったのか。どんな思いで、チヨはその決断をしたのだろう。
「では、その村は今も...」
「存在している。だが、住民たちは自分たちの過去を知らない。まるで時間の外に置かれたように」
クロの右目の紋様が不安定に明滅した。彼は窓の方を見て、まるで遠くの景色を思い出すように立ち尽くした。
「チヨは...責任を感じていた」彼は小さな声で言った。「彼女は最後まで、村の記憶を取り戻す方法を探していた」
ジョセフはクロをじっと見つめた。彼の目には理解と同情が浮かんでいた。
「お前は彼女の一部だな。だからこそ、記憶を集める使命がある」
クロは答えなかったが、その右目の紋様が強く輝き、彼の意志を示しているようだった。何かを隠しながらも、使命を果たそうとするその姿に、ルカは複雑な感情を抱いた。
「光の欠片は真実と啓示を司る」ジョセフは静かに言った。「それは隠された真実を照らし出す力を持つ。夕霧村の謎を解く鍵、それがこの欠片の意味だ」
ジョセフは蓮に微笑みかけた。
「君が彼の孫か。目つきが似ている」
「ありがとうございます」
蓮は照れたように微笑んだ。その表情には、祖父への誇りと、彼の研究を継ぐ決意が表れていた。彼はノートに熱心にジョセフの言葉を書き留め、時折質問を挟んだ。
「科学と神秘は、本当は一つなのではないか」彼は小さく呟いた。「祖父は科学で神を測ろうとしていたけれど、私は...」言葉は途切れたが、その目には決意が燃えていた。
「さて」ジョセフは話題を戻した。「光の欠片について説明しよう。これは"真実と啓示を司る欠片"だ。隠された真実を照らし出す力を持つ」
彼は壁の図を指さした。そこには九つの欠片が描かれており、それぞれに名前と特性が記されていた。図は古代の写本のように描かれ、金色と青の顔料で彩色されていた。
「九つの欠片は、狐神の九つの属性を表している。声、願い、時、光、影、心、形、霊、そして封印だ」
ルカは息を呑んだ。ここまで詳細な情報を持つ人物に出会うとは思っていなかった。そして、それらが彼女の探求と深く関わっているという事実に、運命を感じずにはいられなかった。
「欠片は狐神の力が強すぎたため、チヨが封印時に九つに分割した」ジョセフは続けた。「記憶を守り、狐神の暴走を防ぐために」
「私たちが探しているのは、最初の五つです」
「ああ、それで十分だろう。残りの四つは、既に決まった場所にある」
「どこに?」
ジョセフは蓮を見つめた。彼はルカの質問に直接答えず、研究ノートの別のページをめくった。
「風見よ、君の祖父は地図に特別な記号を使っていなかったか?」
蓮は目を輝かせた。
「はい!青いバツ印です。祖父の地図には、特定の場所にその印が...」
蓮はバッグから古びた手帳を取り出した。ページをめくると、霧梁県の地図が現れ、五つの場所に青いバツ印が付けられていた。一つは久遠木、一つは山中の廃教会、そして残りの三つが謎の場所に記されていた。
「祖父は使命を感じていたのでしょうか。このマークの意味を教えてくれなかったのに、なぜかこの手帳だけは私に残してくれました」
「それが欠片の在り処だ」ジョセフは静かに告げた。「彼も知っていたのだよ」
「どうして…祖父が欠片のことを?」
「彼はチヨの封印を目撃した。唯一の科学者として、その現象を記録した。そして『記憶の波紋』を追い続けたんだ」
ルカはクロを見た。彼は静かに闇の中に佇み、この対話を聞いていた。肩の力が抜け、かつての警戒心は薄れているようだった。チクワはクロとジョセフの間を行ったり来たりし、何かを感じ取ろうとしているようだった。時折、猫の背中の毛が青く光り、彼女の内面に何かの力が宿っていることを示していた。
「どうやって欠片を手に入れるのですか?」ルカは老人に尋ねた。
「それを話す前に、光の欠片の性質を理解しなければならない」
ジョセフは立ち上がり、壁の別の図を示した。それは教会の断面図で、ステンドグラスの構造が詳細に描かれていた。図の中には光の経路が線で示され、特定の点で交差している。交差点には「真実の結晶」という言葉が記されていた。
「光の欠片は、ステンドグラスの赤い薔薇の中心にある。だが、単純に取れるわけではない。試練がある」
「どんな試練ですか?」
老人の表情が厳かになった。その顔の皺が深まり、目に宿る光が強くなった。まるで別の存在が彼を通して語りかけているかのようだった。




