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第58話 研究室の秘密

地下室は予想外に広く、整然としていた。壁には本棚が並び、古い書物が並べられている。中央には作業机があり、そこには紙や羊皮紙が広げられていた。キャンドルの灯りが柔らかな光を投げかけ、独特の雰囲気を作っていた。ルカの耳には昔の研究者たちの囁き声や、ページをめくる音が微かに聞こえるようだった。


地下室には厚い絨毯が敷かれ、足音を吸収していた。壁に掛けられた様々な国の十字架や、東洋の護符が混在する様子が、この場所の混交的な性質を物語っていた。天井からは古い懐中時計が幾つも吊るされ、それらは全て異なる時間を指していた。


「研究室?」


ルカは見回した。ここは単なる地下室ではなく、何世紀もの知識が集積された学問の聖域のようだった。


「ああ。私は司祭でありながら、研究者でもあった。東洋の神秘思想とキリスト教の共通点を探る研究をね」


ジョセフは本棚から古い書物を取り出した。その手つきには、書物への深い愛情が表れていた。表紙には金色の文字で何か書かれているが、それは既知のどの言語にも似ていなかった。本を開くと、ページから軽い青い光が放たれた。


「これを見たまえ」


それは古い手書きの本で、『東方の神と西方の聖』と題されていた。ページを開くと、緻密な絵図と文字で埋め尽くされていた。挿絵はペンで細密に描かれ、金箔や彩色が施されていた。そこには写し世の光景や、影向稲荷の祭りの様子、そして九尾の狐の姿が描かれていた。


「私の生涯の研究だ。特に、"記憶"に関する日本とケルトの伝承の比較研究を行ってきた」


蓮が食い入るように本を見つめた。彼の顔には純粋な知的興奮が表れていた。


「これは...素晴らしい!」彼の声には興奮が滲んでいた。「祖父の理論と共通する部分がある。記憶の波動と聖地の関係性...」


彼はページをめくり、緻密な図を指さした。「この波動の数値分布は、祖父が『記憶の共鳴音階』と呼んでいたものとほぼ一致します。場所の特性と記憶が残留する強度の相関関係が、数学的に表現されています」


「風見柊介の孫だな?」ジョセフは蓮を見つめた。「目の輝きが似ている。彼もここを訪れたことがある」


「祖父が?いつですか?」


「十年前の封印の後だ」ジョセフは古い日記を指さした。「彼は封印の科学的側面を解明しようとしていた」


蓮の目が驚きと喜びに輝いた。「やはり!祖父はこの場所で何を発見したのでしょう?」彼は自分のノートを開き、祖父の古い方程式と比較した。「科学と神秘の接点...これが祖父の求めていたものだったのかもしれません」


ルカは驚いた。蓮の祖父は、チヨの封印について調査していたのだ。二人の出会いは、偶然ではないのかもしれない。チクワが彼女の足元で鳴き、耳をピクピクと動かした。何かを感じ取っているようだった。


「なぜ、そんな研究を?」ルカはジョセフに問いかけた。


老人はキャンドルの炎を見つめた。その瞳に過去の映像が浮かぶようだった。光の中で彼の顔は若返り、ときに別の顔—おそらく彼の妻—が重なるように見えた。


「信仰の真髄を見極めるためさ。すべての宗教は、人間の記憶と意識の働きに根差している」


彼は椅子に腰掛け、古い思い出を語るように続けた。声には歳月の重みがあったが、同時に若々しさも失われていなかった。


「私は純粋なキリスト教を布教するつもりで来日したが、日本の神道や仏教と接するうち、より深い真実があると気づいたのだ」


ジョセフは研究ノートを開き、ページをめくった。蓮が隣に座り、熱心にノートを覗き込む。ノートには宗教儀式の図解と、それに対応する物理現象の記録が並列されていた。「祈り=波動」「記憶=貯蔵」などの等式が書かれている。


「特に影向稲荷の狐神については、多くの調査を行った。その神は"記憶を司る神"。私の故郷アイルランドにも、似た神話がある」


クロが興味を示し、初めて光の中に一歩踏み出した。彼の狐面に映る光がステンドグラスの色を映し、一瞬だけ面の下の素顔が透けて見えたような錯覚があった。若い男性の顔に、女性の表情が重なっているようだった。


「ケルトの伝承にも?」


「ああ。"記憶の井戸"の伝説だ。知恵の泉とも呼ばれる」ジョセフの目が輝いた。「すべての記憶が集まる場所。飲むと知恵が得られるが、代償を払わねばならない」


クロの右目の紋様が鮮やかに光った。


「その代償とは?」


「片目の光だ」


その言葉に、クロの体が震えた。右目の紋様が激しく明滅し、彼は思わず面に手をやった。チクワは彼の足元に寄り添い、小さく鳴いた。


「片目...」クロは小さく呟いた。「私も代償を払った...」


彼の言葉は痛みに満ちていた。右目の紋様が強く脈動し、その光が部屋中に投影された。まるで彼の内面の苦悩が実体化したかのように。


ルカはジョセフを見つめた。その目は鋭く、知性に満ちていた。単なる司祭や研究者ではない—彼は何かの媒介者、境界の守り手のようだった。彼の存在そのものが、現世と写し世の接点なのかもしれない。


「あなたは...十年前の封印のことも知っているのですか?」


ジョセフは重々しく頷いた。彼の目には何世紀もの記憶が宿っているようだった。


「もちろんだ。私は立ち会わなかったが、その直後に知った。霧梁県全域で、多くの人々が同時に何かを忘れたのだから」


彼は古い地図を広げた。そこには霧梁県が描かれ、特定の地点が印されていた。地図の端には「記憶の結節点」という言葉と共に、複数の場所が示されていた。その中には久遠木や、山中の廃教会、そして「夕霧村」と名付けられた小さな集落も含まれていた。


「ここが封印の場所。影向稲荷の奥宮だ」


蓮が身を乗り出した。彼は自分のノートを開き、ジョセフの地図をスケッチし始めた。


「それが、祖父のノートに記録されていた"記憶の異常"ですね」


彼は自分のノートを取り出し、場所を照合した。彼のノートにも同様の地図があり、曲線で結ばれた点が記されていた。


「正確に一致します。祖父は気圧の急激な変化を記録していました。『記憶の波紋』と呼んでいましたが、それは時の狭間が開いた痕跡だったんですね」


「それこそが封印の痕跡だ」ジョセフは頷いた。「風見柊介も、その現象を観測していた。彼とも交流があったよ」


蓮は眼鏡を直し、さらに熱心にノートを取った。「では祖父は科学的手法で写し世を観測していたのですね。彼のノートにも『記憶の定量化』に関する研究がありました。祖父は看板形質計という装置で微弱な電磁波を測定していたんです」

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