第57話 司祭ジョセフ・ブラウン
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、教会の奥から足音が聞こえた。三人が振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。チクワは鳴き声を上げ、老人の方へと駆け寄った。
白髪の老人は、聖職者のローブではなく、質素な麻の服を着ていた。彼は杖に寄りかかりながらも、背筋はピンと伸びている。年齢は八十を超えているだろうか。深い皺が刻まれた顔には、長い年月の知恵が宿っていた。肌はパーチメントのように薄く、乾いていたが、目には知性と穏やかさが輝いていた。
「よく来たな、旅人たち」
老人の声は意外にも力強く、教会内に反響した。その声には権威と同時に、穏やかな温かさがあった。彼はチクワの頭を優しく撫で、「久しぶりだな、小さな使者よ」と囁いた。
「あなたは?」
「ジョセフ・ブラウンだ。かつてこの教会の司祭を務めた者さ」
ルカは驚いた。教会が放棄されてから七十年以上。そんな老人がまだ生きているとは。彼の身体からは独特の香りがした。古い書物のような匂いと、香木の芳香が混ざったような、時間そのものの香り。
「まだ…ここにいらっしゃるんですか?」
「ああ、戦時中も、戦後も、私はここを離れなかった。日本人の妻と共に」
老人—ジョセフは微笑んだ。その笑顔には温かさと同時に、何か秘めたものが感じられた。彼の目は深く、底知れない叡智を湛えていた。
「神の意志というものさ。さて、お前たちが来た目的は分かっている。光の欠片だろう?」
クロが一歩前に出た。彼の姿勢には警戒心があったが、同時に敬意も見られた。右目の紋様が安定した光を放ち、ジョセフを認めるかのように明滅した。
「どうして知っている?」
「この欠片を守るのが、私の使命だからさ。待っていたのだ、正しい者たちが現れるのを」
ジョセフはルカをじっと見つめた。その鋭い目は、彼女の内面まで見透かすようだった。まるで彼女の心の奥底に眠る秘密まで見えているかのように。
「あなたが次の夢写師か。橋爪の娘」
「あなたは...私の家系を?」
「もちろんだ。私は五十年以上、この地にいる。影向稲荷の神主とも交流があったし、夢写師の存在も知っていた」
ジョセフは杖で床を叩いた。その音が教会に響き、光の粒子が揺れるように見えた。反響音は通常より長く続き、頭上のステンドグラスを通過した光が、床に美しい波紋を描いた。その波紋が時間の流れを可視化しているようだった。
「写し世とは記憶が形を成す場所だ」ジョセフは静かに続けた。「人々の強い感情や集合的記憶が土地や物に刻まれ、それが独自の次元を形成する。特定の条件—霧、月光、儀式—がそろうと、その記憶は現世に漏れ出してくる」
彼の説明は簡潔でありながら、これまでルカが体験してきたことを的確に言い表していた。彼女の中で、写し世の概念がより明確な輪郭を持ち始めた。
「さて、欠片について話そう。だが、その前に……」
彼はクロを見た。その眼差しは、面の奥の素顔まで見通すようだった。
「お前の正体も知っている。狐神の片割れよ」
クロの右目の紋様が激しく明滅し、彼の体が緊張で強張った。まるで逃げ出す準備をしているかのように。チクワは彼の足元に寄り添い、低く鳴いた。その鳴き声は警告と慰めの両方を含んでいるようだった。
「心配するな。敵ではない。むしろ、理解者だ」
ジョセフはそう言って、祭壇の方へと歩き始めた。その歩みは年齢を感じさせないほど確かだった。床に落ちる彼の影は不思議な形をしており、時に若い姿に変わり、時に老人に戻るようだった。まるで時間の流れの中で揺れ動いているかのように。
「私に続いて」
三人は老人の後に続いた。祭壇の裏には小さな扉があり、そこから螺旋階段を下りた。地下室だった。
階段を下りるにつれ、空気が変わった。湿度が増し、壁から染み出る水滴が光に反射して小さな虹を作る。石の冷たさと、古い本の匂いが混ざり合い、時間が凝縮されたような感覚があった。階段の壁には浮き彫りが刻まれ、その模様が光の中で動いているように見えた。
「ここが私の研究室だ」




