第56話 教会の姿
三人は森を抜け、開けた丘に出た。そこからの眺めは素晴らしく、霧梁県の山々が連なる様子が一望できた。空気は清々しく、肺いっぱいに吸い込むと生命力が体内に広がる感覚があった。
「あそこです」
蓮が指さす先に、小さな白い建物が見えた。木々に囲まれた小高い丘の上に立つ教会。その尖塔だけが、木々の間から顔を覗かせている。光を受けて輝くステンドグラスの一部が、遠くからも確認できた。
「近そうに見えるけど…」
「実際には、まだ三時間ほどかかります」
蓮は古い地図と現代の地図を比較し、計算していた。彼は地図と実際の景色を何度も見比べ、位置関係や距離を正確に把握しようとしていた。その分析力は科学者のそれだった。
鳥のさえずりが遠くから聞こえ、森の香りが風に乗って流れてきた。この山々の景色は、何百年もほとんど変わらずにあり続けてきたのだろう。風の歴史。石の記憶。大地に刻まれた時間。
三人は再び歩き始めた。道は次第に人の手が入っていない獣道になり、進むのが難しくなる。時折、蓮が古い地図を確認しながら、方向を修正した。チクワは時々立ち止まっては、地面の匂いを嗅ぎ、道を確かめるように鳴いた。その鳴き声は風に消え、遠くのこだまとなって返ってきた。
「この道、昔は巡礼路だったそうです」
「巡礼? キリスト教の?」
「いいえ、元々は山岳信仰の道で、後にキリスト教の巡礼路として再利用されたようです」
蓮はノートに何かを書き込みながら続けた。ページの隅には、蔓のような線が描かれ、その周りに小さな文字で「信仰の地脈」と書かれていた。
「祖父の理論では、古くからの聖地には『記憶の結節点』があるそうです。人々の想いが何世代にもわたって蓄積された場所。それが写し世との境界を薄くする」
彼はノートをめくり、地図を広げた。そこには霧梁県の主要な神社仏閣が印され、青い線で結ばれていた。「祖父はこれを『記憶の地脈』と呼んでいました。信仰の場所に残る集合的記憶が作る磁場のようなものです」
クロが珍しく会話に加わった。彼の声には知識の深さと、それを長く見てきた者特有の落ち着きがあった。
「混交信仰だ。日本とヨーロッパの宗教的要素が混ざり合っている」
「そうみたいですね」蓮が頷いた。「祖父のノートには、この教会が建てられた場所は元々、山の神を祀る祠があったと書かれています」
クロの右目の紋様が明滅した。その光は何かを思い出したように強くなったり弱くなったりした。
「記憶は土地に刻まれる。異なる信仰が重なれば、その力はさらに強まる」
クロの言葉には説得力があった。まるで自らもその一部であるかのように、写し世の原理を説明する彼の声には権威があった。クロはただの「狐神の片割れ」なのだろうか、とルカは疑問に思った。彼の知識は深すぎる。まるで、写し世そのものであるかのように。
ルカは周囲を見回した。確かに、道端には古い石碑や、朽ちた鳥居の跡が見える。様々な時代の祈りが層となって積み重なった場所—それがこの山なのだろう。どこからともなく、古い祈りの声が風に乗って聞こえてくるようだった。山の神への祈り、キリストへの祈り、過去と現在が重なる音が、微かに耳を震わせる。
足元の石には摩耗した文字が刻まれ、触れると冷たさの中に古い記憶の余韻を感じた。空気にも独特の匂いがあった。土の湿り気と草木の香りに混じって、かすかに香木の残り香がした。それは古い記憶の香りだった。
「宗教が混ざるとき、記憶も混ざる」
クロの言葉は謎めいていた。ルカは彼の横顔を見た。狐の面の下で、何を考えているのだろう。時に見せる知識の深さは、単なる「狐神の片割れ」としては説明できないものだった。
昼過ぎ、三人は最後の急な坂を登り、ようやく廃教会の前に立った。
「ここが…」
かつては美しかったであろう白い礼拝堂は、今では苔と蔦に覆われていた。屋根の一部が崩れ、正面のドアは半ば壊れている。それでも、ゴシック様式の尖塔と大きなバラ窓は、かつての荘厳さを伝えていた。
肌で感じる空気も変わった。この場所には独特の雰囲気があり、厳粛さと神聖さが混ざり合っていた。教会の周りは不思議と静かで、鳥の声も風の音も遠くなったように感じる。しかし、耳をすませば、かすかに聖歌のような響きが建物内部から漏れ出していた。
「驚くほど…保存状態がいいわね」
風化した石壁は苔に覆われ、金属部分は錆びていたが、建物の構造自体は驚くほど無傷だった。それは「時間」が特別な形でこの場所に存在している証拠かもしれなかった。
「戦時中に放棄されたとはいえ、信者たちが時々訪れていたようです」
蓮が言った。「最後の礼拝は昭和二十年だったとか」
彼は小さなカメラを取り出し、建物の写真を撮り始めた。蓮にとって、この旅は祖父の遺志を継ぐ研究の旅でもあるようだった。シャッター音が周囲の静寂を破り、そのたびに建物から微かに光が漏れるように見えた。
「光の欠片があるからだ」
クロが言った。彼は光から距離を取り、影の中に佇んでいた。右目の紋様は暗く、まるで光を避けるかのようだった。その姿は不安定で、時々輪郭がぼやけ、写し世に溶け込もうとしているようにも見えた。
「クロ…大丈夫?」
ルカが尋ねると、クロはゆっくりと頷いた。
「光の記憶が…強すぎる。俺の中の何かを呼び覚ます」
彼の声には苦痛と懐かしさが混ざっていた。右目の紋様が激しく明滅し、面の下から微かに若い女性の声が漏れているかのように聞こえた。まるでクロの中に、別の存在が潜んでいるかのように。
「そういえば…光の欠片は、どこにあるの?」
「ステンドグラスの中だ。赤い薔薇の模様の中心に」
ルカは見上げた。確かに、祭壇上部のステンドグラスには大きな薔薇の模様があり、その中心が特別に明るく輝いていた。光の筋が放射状に伸び、まるで生きているかのように脈打っている。一瞬だけ、その薔薇の模様がチヨの笑顔のように見えた気がした。
「あんな高いところ、どうやって取るの?」
「取る前に、守護者に会わねばならない」




