第55話 時の狭間の解説
「これは祖父の理論と一致します。霧の濃度と記憶の波動は比例関係にあり、時の狭間が現れる条件を満たしていました」
蓮の指が図を辿る。図には波線とともに数式が書き込まれ、まるで波の性質を計算しているかのようだった。「時の狭間」という言葉の横には「記憶の共鳴点」という注釈があった。
「時の狭間って何なの?」ルカは昨日感じた不思議な感覚を思い出しながら尋ねた。
「祖父の理論では、現世と写し世の境界が最も薄くなる領域です」蓮は眼鏡を直しながら答えた。「通常、記憶は現世から写し世へと一方通行で流れていきますが、特定の条件が揃うと、写し世の記憶が現世に漏れ出し、両者が交わる空間が生まれる。それが時の狭間です」
蓮は話しながら、指先でノートに波の干渉パターンのような図を描いていた。その真剣な眼差しと知的好奇心に満ちた表情は、チヨを思わせるものがあった。純粋な探究心が、彼の言葉に説得力を与えていた。
「でも時の狭間と写し世の違いは?」ルカは自分の体験を整理するように質問した。
「時の狭間は一時的で、条件に依存します」蓮は考えながら答えた。「月の力や霧の濃度が変われば消える。一方、写し世は常に存在する別次元。ただ見えないだけで」
クロが少し離れた場所から加わった。
「時の狭間は月夜の幻影のようなもの。見え、触れられるが、朝には消える。写し世は常に隣にある鏡の国。見えないが、常に影響を与える」
彼の説明は簡潔ながら詩的で、右目の紋様が青く輝いていた。まるで個人的な経験から語っているようだった。
「どんな場所なの?山中の廃教会」
「明治期に外国人宣教師によって建てられた教会です。戦時中に放棄されましたが、カトリック様式の小さな礼拝堂で、ステンドグラスが美しいと言われていました」
ルカは蓮を見つめた。彼の知識は豊富だ。単なる情報ではなく、そこに興味と敬意が混ざっている。まるで自分の目で見たかのような生き生きとした描写だった。
「詳しいのね」
「祖父のノートに記録があって…」蓮は少し照れたように微笑んだ。「実は子供の頃、一度だけ祖父に連れられて行ったことがあるんです」
「覚えているの?」
「ほとんど覚えていません。ただ、ステンドグラスから差し込む光が、床に虹色の模様を描いていたのを覚えています」
蓮の目が遠くを見る。記憶を追いかけるように。その瞳には、知的好奇心と同時に、祖父への愛情が映っていた。
「祖父はその光を見て、『これが記憶の波紋だ』と呟いていました。当時は意味がわかりませんでしたが、今なら写し世と現世が重なる場所では光の波長も変化すると理解できます」
クロは少し離れた場所で、じっと二人の会話を聞いていた。彼の右目の紋様が時折明滅し、その青い光が彼の内面の揺れを映していた。蓮の言葉に反応するように、紋様が強く脈打った。
「写し世と、写祓と、欠片—すべては繋がっている」クロは低い声で言った。「光の波長は記憶の振動と共鳴し、それを捉える者が、夢写師だ」
遠くから時間の軋むような低音が聞こえ、微かに地面が振動した。それはまるで、大地に刻まれた古い記憶が揺り動かされたかのような音だった。春の木々の匂いに混じって、微かに花の香りがし、遥か昔の記憶の断片が風に乗って流れるようだった。
「行きましょう」
彼の言葉で、三人は山を下り始めた。霧梁県の山々は緑濃く、道は時に険しくなる。蓮はそんな道もどこか慣れた様子で歩いていく。彼の歩みには自信があり、時折立ち止まっては周囲の風景をスケッチした。観察眼は鋭く、科学者の視点と芸術家の感性が融合しているようだった。
ルカは彼の背中を見つめながら、風見蓮という男の存在について考えていた。彼は普通の人間でありながら、写し世の存在を理解し、受け入れる特別な視点を持っていた。それは彼女にとって新鮮であり、同時に心強いものだった。
「蓮さんは、山登りが得意なの?」
「ええ、祖父の仕事を手伝うようになってからです。山の気象観測には、体力が必要でしたから」
彼は振り返って笑った。その表情には、どこか懐かしむような感情が見えた。
「何かあったの?」
「いえ…ただ、おじいさんとの山歩きを思い出しました。いつも天気のことを話していて…『空を見上げるな、雲を見ろ』と」
その言葉に、ルカは思わず空を見上げた。そこには薄い雲が流れ、風の流れを視覚化しているようだった。確かに、雲の動きを見れば、これから何が起こるかが予測できるかもしれない。
ルカは心の中で、その言葉を反芻した。空ではなく雲を見る。見えるものではなく、変化するものを観察する。それは写し世を捉える心構えにも通じる。蓮の祖父は、科学者でありながら写し世の存在を理解していたのだろう。
「風見さんのおじいさん、とても興味深い人だったのね」
「ええ。変わり者と言われていましたが、私には世界で一番賢い人に思えました」
蓮の笑顔には明るさがあったが、その奥に微かな哀しみも感じられた。祖父の死を今も受け入れきれていないような、そんな表情だった。
「祖父の死には…不思議なことがあったんです」彼は急に声を落とした。「五年前、彼は観測所で亡くなりました。その日は霧が異常に濃く、彼の遺体の周りには青い粉のようなものが…」
彼は言葉を切った。話すべきか迷うような表情があった。
「青い粉?」
「ええ。最初は何かの観測物質かと思いましたが、分析しても正体不明でした。それに、祖父の遺体は不自然に老化していたんです。まるで時間が急速に進んだように」
この言葉に、クロが振り返った。彼の右目の紋様が強く明滅し、何かを感じ取ったような反応をしていた。
「それは…影写りの粉の残滓かもしれない」クロが言った。
「影写りの粉?」蓮が食い入るように尋ねた。
「影写りの粉は時間を操作する力を持つ。特に欠片の力と組み合わせると、強力な効果を生む。寿命を縮める力もある」
クロが説明すると、蓮はノートに急いでその言葉を記録した。彼の眼鏡の奥の瞳が、科学者としての好奇心に輝いていた。
「祖父は何かの実験をしていたのかもしれません。彼は最後の日記に『時間の解放』について書いていました」
蓮はノートから紙切れを取り出し、そこに書かれた複雑な方程式を指さした。「祖父の遺した最後の計算式です。『時間の波動』と『記憶の粒子』の相関関係について…」
クロとルカは顔を見合わせた。風見柊介の死と欠片、そして影写りの粉の関係は偶然ではないようだ。三人の間に短い沈黙が流れ、それぞれが自分の考えに沈んだ。
クロが彼らに追いつき、蓮を見つめた。面の下の表情は見えないが、その姿勢には何か特別な関心が表れていた。チクワもクロの足元に戻り、彼の周りを一周して鳴いた。その鳴き声には、警告と安心が混ざり合っていた。
「風見柊介は…特別な目を持っていた」
蓮は驚いた表情でクロを見た。
「祖父を知っていたんですか?」
クロは言葉を選ぶように間を置いた。右目の紋様が不規則に明滅し、内面の葛藤を示していた。その面の下で、何かを思い出して苦しんでいるようだった。
「直接ではない。だが、その名は知っている。十年前の…封印の時に、彼はいた」
蓮の目が輝いた。まるで宝物を見つけたかのように。
「やはり!祖父のノートには、あの夜の記録がありました。『七時四十二分に時の狭間が開いた』と。彼は霧梁県全体で発生した記憶の異常について調査していたようです」
彼はバッグから古びた手帳を取り出し、黄ばんだページを開いた。「この図表では、封印の夜に霧梁県全域で気圧の異常な低下が記録されています。そして、青い粒子状の物質が大気中に増加したというデータも…」
「今はその話をする時ではない」
クロは話題を切り、先に進んだ。彼の背中には、抱え込んだ何かの重さが感じられた。その肩の強張り方に、ルカはクロが風見柊介の死に何らかの関わりがあるのではと疑い始めた。クロはチヨの封印の夜に何を見たのだろう。風見柊介と共に、どんな真実を目撃したのだろうか。
チクワは彼の後に続き、時折振り返っては蓮とルカを見守るようだった。猫の瞳は風景と同じように霧がかっていたが、時折青く光り、写し世の存在を感じ取っているようだった。




