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第53話 「観察者」の出現

観測室の窓の外で、突然風が強まり、霧が渦を巻き始めた。窓ガラスが震え、建物全体が軋むような音を発した。チクワが毛を逆立て、窓の外を見つめながら低く唸っている。


「何かいる」クロが静かに言った。彼の右目の紋様が激しく明滅し、身体が緊張で固まっていた。


霧の中から、黒い影が見えた。人の形をしているが、顔は見えない。影は窓の前に立ち、じっとこちらを見つめているようだ。


「誰か…いる」ルカは小声で言った。


クロが窓に近づき、外を見た。右目の紋様が激しく光り、彼の体が警戒で固まった。


「観察者だ。欠片を求める者たちの一人。彼らは封印を守ろうとしている」


「私たちの敵?」


「必ずしもそうとは限らない。だが、欠片を集めることを望まない存在だ」


外の影は既に消えていたが、見られているという感覚が残った。これからの旅はさらに危険になるだろう。彼らは単に記憶の喪失だけでなく、実体的な敵とも向き合わなければならないのだ。


「では、次の目的地に向かおう」クロが言った。「明日は山中の廃教会だ。そこには『光の欠片』が眠っている」


ルカは微かに頷いた。彼女の頭はまだふらつき、失われた記憶の空白を埋めようと必死に働いていた。チヨの最後の夢…それがどんなものだったのか、もう思い出すことはできない。だが、何かとても大切な手がかりだったような気がする。


「今夜は、ここで休みましょう」蓮が提案した。「観測所には簡易ベッドがあります。祖父が泊まることもあったんです」


三人は観測室に戻り、蓮が古いロッカーから毛布を取り出してきた。汚れてはいるが、使えるものだった。チクワは窓辺に座り、外の霧を見つめている。その瞳が時折青く輝き、何かを感じ取っているようだった。


夜が更け、月が雲に隠れたり現れたりする中、三人は簡易ベッドで眠りについた。ルカの夢は断片的で、時間が混乱したものだった。チヨと過ごした幼い日々、遊園地でのカナの姿、そして祭壇の上のチヨ。だが、最後の夢の内容だけは、どうしても思い出せなかった。


「姉が選んだ道…それはどんな道だったの?」


彼女の問いかけは夢の中で反響するだけで、答えは返ってこなかった。代わりに、時の欠片が彼女の胸ポケットで微かに脈打ち、未来への道を示しているようだった。


翌朝、霧が晴れ始め、山の景色が見えるようになった。蓮は観測所の記録を何冊かノートに整理し、ルカとクロは次の旅の準備をしていた。


「光の欠片が教会にあるなんて、興味深いですね」蓮が言った。「科学と信仰の交差点…祖父なら喜んだでしょう」


彼の眼鏡に朝日が反射し、知的好奇心に満ちた表情が輝いていた。若い科学者の探究心と、見えない世界への敬意。その両方を持ち合わせた彼は、この旅にとって貴重な仲間になるだろう、とルカは感じた。


チクワが窓から飛び出し、外の石段に座った。遠くに見える山々を見つめ、何かを感じているようだ。ルカも窓の外を見た。霧の向こうに見える峰々、そして雲の切れ間から見える青空。感情を閉ざしていた彼女の心に、少しずつ光が差し込んできているようだった。


だが、窓の外の霧の中に、再び黒い影が見えた。人の形をした影が、じっと観測所を見つめている。


「また来た...」クロが小さく呟いた。


「何者なの?」ルカは声をひそめて尋ねた。


「観察者だ。彼らは欠片の動きを監視している。チヨの封印を守る存在かもしれないし...あるいは」クロの言葉は途切れ、彼の姿勢がさらに緊張した。


蓮が窓に近づき、外の影を見た。彼の顔に浮かぶ表情は、恐怖よりも科学的好奇心を示していた。


「祖父のノートにもありました。『黒い影の観察者』について。彼らは境界の守護者だとか」


「危険なの?」


「必ずしも敵ではない」クロが答えた。「だが警戒は必要だ。彼らは欠片を集めることを望まない。封印を維持したいのだろう」


蓮はノートを開き、何かを書き込んだ。


「行きましょうか」ルカは二人に言った。「次の場所へ」


山を下る時、蓮は祖父の記録をバッグに詰め込み、懐から小さな測定器を取り出した。それは懐中時計のような形をしていたが、針が複雑な動きをしている。


「祖父の発明品です。霧の濃度と時間の波動を測定する装置。これから役立つかもしれない」


クロはそれを興味深そうに見た。


「風見柊介は本当に特別な科学者だったな」


「はい。彼は『見えないものを測定する』ことが科学の本質だと言っていました」蓮は誇らしげに言った。「目に見えぬものだからこそ、その影響を測り、理解する。それが祖父の科学でした」


三人は山道を下りながら、次の目的地である山中の廃教会について話し合った。クロによれば、そこには光の欠片があり、「真実と啓示を司る」力を持つという。


ルカは胸ポケットの欠片たちを確かめた。すでに三つを手に入れ、代償として三つの記憶を失った。両親との最後の会話、初恋の記憶、そしてチヨの最後の夢。それぞれの喪失が、彼女の内側に空洞を作っている。だが同時に、その空洞が新たな感情で満たされつつあるようにも感じた。


「今後、欠片を見つける度に、私はもっと記憶を失うわね」


「そうだ」クロは静かに答えた。「だが、同時に何かを得る。それが欠片の本質だ」


「失うことで得る—」蓮がノートに何かを書き込みながら言った。「祖父の理論では、全ての記憶は失われるのではなく、形を変えて別の場所に存在すると言っていました」


風が柔らかく吹き、三人の髪を揺らした。下界からは、遠く鳥の鳴き声が聞こえ、日常の世界が彼らを待っているようだった。チクワは時折足を止め、何かを感じ取るように耳を動かしていた。その金色の瞳には、これから訪れる道程への予感が映っているようだった。


「今夜は久遠木に戻りましょう」ルカが提案した。「そして明日、廃教会へ向かいましょう」


視界の端に、再び黒い影が見えた気がした。だが、振り返ると何もなかった。ただ霧が渦巻いているだけ。それでも、誰かに見られているという感覚は消えなかった。


観察者は彼らを監視し続けている。封印の秘密が少しずつ明らかになるにつれ、新たな危険も近づいていた。ルカは決意を新たにした。どんな代償があろうと、姉を取り戻すために前に進むと。


山を下りながら、ルカはチヨの封印について考えていた。欠片を集めることが、本当に姉を救うことになるのか。そしてもし救えたとして、それは何を意味するのか。喪失した記憶の痛みと引き換えに、彼女は本当にチヨを取り戻すことができるのだろうか。


蓮の言葉が風に乗って届いた。「祖父はよく言っていました。『記憶と時間は平行線のようなもの。交わることはないが、常に共に進む』と」


その言葉が、ルカの心に残響した。失われた記憶と、これから集める記憶。それらはすべて、チヨを取り戻すための旅路の一部なのだ。時の欠片を手に入れたことで、彼女の中で時間の感覚も少しずつ変わり始めていた。過去と未来が交差するその瞬間に、彼女は立っているのかもしれない。


ルカは深呼吸した。山の空気は澄んでいて、霧はすっかり晴れていた。目の前には、次なる目的地への道が続いている。時の欠片が伝えた未来の断片が、彼女の心の中でゆっくりと意味を成し始めていた。


朝日が雲間から差し込み、三人の影を地面に長く伸ばした。それぞれが異なる思いを胸に、しかし同じ方向を目指して歩いていく。


山の稜線が彼らの眼前に広がり、その向こうに次なる試練と発見が待っていた。観察者の影が彼らを追いながらも、ルカは前進を続けた。時の欠片から感じる未来への予感と、失われた過去の痛みを抱えながら、彼女は歩みを続けた。


目的地までの道のりは、まだ遠い。だが、一歩一歩が確かに、チヨとの再会に近づいているはずだ。そう信じながら、彼女は新たな旅立ちの朝を迎えていた。

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