第48話 観測所へ到着
会話をしている間に、霧が少し薄くなってきた。そして突然、目の前に霧見気象観測所の建物が姿を現した。
「着いたみたいね」
三階建ての古い建物。コンクリート造りで、戦前の堅牢な建築様式が残っている。屋上には風速計や無線塔が立ち、側面には階段が這うように伸びていた。窓の多くは割れ、壁面には苔が生えている。建物全体からは時間の重みと、どこか神秘的な雰囲気が感じられた。
霧が流れるように建物を包み込み、その輪郭を幻想的に浮かび上がらせていた。壁面に生えた苔や蔦が時間の流れを象徴し、割れた窓ガラスから覗く内部の暗がりは、過去の記憶が眠る深淵のようだった。
風が運ぶ匂いは、古い金属と湿った石材の匂い。そこには過去の時間が染み込んでいるようだった。風が建物を通り抜けるたびに、かすかな囁き声のような音が聞こえる。記録する鉛筆の音や、観測機器が奏でる律動的な音、古い天気図が風にめくれる音が、風の中から聞こえてくるような錯覚を覚えた。
「ずいぶん古いのね」
「ここは戦前から戦後にかけての気象観測の重要拠点でした。特に霧梁県の異常気象の研究に貢献したんです」
蓮は懐かしむように建物を見上げた。彼の目には深い愛情と尊敬の色が浮かんでいた。
「子どもの頃、何度か祖父について来たことがあります」
蓮の瞳には、幼い日の記憶と祖父への敬愛が映っていた。彼にとって、この廃墟は単なる研究対象ではなく、個人的な思い出が詰まった場所なのだった。
「祖父は特別な壁画を見せてくれたんです」彼は急に思い出したように言った。「壁に描かれた霧の波紋の図。幼い目には不思議なパターンに見えましたが、祖父は『これは時間の流れの地図だ』と言っていました」
三人は建物の入り口に向かった。扉は鎖で固定されているが、錆びて弱くなっている。蓮が鎖を引っ張ると、簡単に外れた。
「鍵が壊れてるわね」
「そうですね。地元の子どもたちが忍び込んだりしているみたいです」
扉を開けると、中は薄暗く、埃が舞っていた。廊下には落ちた天井材や壁紙が散乱し、床には小動物の足跡が残っている。廃墟の静寂は、どこか時間が止まったかのようだった。
空気は冷たく、湿っており、カビの匂いと古い紙の香りが混ざっていた。ルカは思わず身震いした。この場所には確かに「記憶」が染み込んでいた。写し世の力が強い場所特有の、時間が層になって積み重なる感覚。
しかし、その静寂の中に、かすかな囁き声が混じっていた。過去の観測員たちの声が、時間の層を超えて漏れ出しているかのよう。「明日は雨だ」「霧の予報を出せ」「七時四十二分、記録せよ」…風に乗って断片的な声が響く。
壁にはいたるところに観測データが残されていた。日付と時間が記された古い気象図、等圧線の描かれた地図、霧の濃度を示すグラフなど。それらは大部分が風化していたが、いくつかはまだ判読可能だった。とりわけ目立つのは、「七時四十二分」という時刻が赤で何度も丸で囲まれた記録だった。
「注意して歩いてください。床が抜ける場所もあります」
蓮が先導し、三人は中に入った。チクワも彼らの後に続き、鼻を鳴らしながら床の匂いを嗅いでいた。廊下を進むと、広い部屋に出た。観測室だろうか。壁一面に計器や図表が並び、中央には大きな作業台がある。
「ここが祖父の仕事場です」
蓮が言った。彼は作業台の引き出しを開け、中身を確認し始めた。引き出しから古びたノートや黄ばんだ図表、フィルムケースなどが次々と出てくる。彼の手つきには、大切な宝物を扱うような丁寧さがあった。
「記録ノートを回収したいんです」
ルカはクロに目配せした。欠片はどこにあるのだろう。クロは小さく頷き、部屋を探索し始めた。彼の右目の紋様が青く光り、その光が部屋の隅々を照らすようだった。まるで写し世の残響を探るかのように。チクワも何かを感じたように、部屋の端にある棚の方へと歩み寄った。




