第47話 風見蓮との出会い
さらに登ること三十分。突然、霧の中から人影が現れた。ルカは驚いて立ち止まった。写し世の住人だろうか。
「誰かいる…」
クロも足を止め、警戒の姿勢を取る。彼の右手がわずかに震え、紋様の光が強まった。チクワが毛を逆立て、低く唸りながら前方の霧を見つめる。その瞳がさらに鋭く光り、身体が弓なりになった。
霧の中から姿を現したのは、一人の若い男性だった。二十代前半、長身でやや痩せ型。茶色の髪を後ろで軽く束ね、丸眼鏡をかけている。彼は手に古い地図を持ち、首から双眼鏡をぶら下げていた。服装は現代的で、写し世の住人というよりは生きた人間のようだ。
「あ、人がいた」
男性は驚いたように言った。その声は穏やかで知的な響きがあり、霧の冷たさの中にも温かみを感じさせた。
「こんな山の中で会うとは思いませんでした」
ルカとクロは警戒を解かない。この場所に人がいることが不自然だった。クロは一歩前に出て、ルカを守るような姿勢を取った。チクワは男性の足元を注視し、まだ唸り声を上げている。
「あなたは?」
「風見蓮です。霧見気象観測所に向かっているんですが…」
男性 — 風見蓮の笑顔は、霧の中に咲く一輪の花のようだった。危うく、けれど真っ直ぐで、人を引き寄せる力を持っていた。その目には知的な光と、どこか純粋な好奇心が輝いていた。チヨの目に似た、真っ直ぐな光。
ルカは一瞬、その目に見覚えがあるような奇妙な感覚を覚えた。かつて見たことのある光、でも思い出せない。それは、欠片によって失われた記憶と関係があるのだろうか。
「風見?…もしかして風見柊介さんの…?」ルカは思わず尋ねた。クロが先ほど呟いた名前を思い出したのだ。
蓮の目が驚きに見開かれた。「そうです、祖父の孫ですが…どうして祖父の名前を?」
「偶然ではないな」クロが静かに言った。「このような場所で、この時期に、風見の孫に出会うとは」
「あなたたちも観測所へ?」
クロが一歩前に出た。狐の面が霧の中で不気味に浮かび上がる。その面から漏れる冷たい視線が、蓮を評価するように見つめていた。
「何の用だ?」
蓮は眉を寄せた。クロの敵意に気づいたようだが、それでも冷静さを保っている。彼の瞳には警戒と同時に、知的な好奇心も見えた。
「随分と警戒的ですね。祖父の遺品を回収しに来たんです。彼はかつてあそこで働いていた」
ルカとクロは顔を見合わせた。クロの右目の紋様が明滅し、その光が面の下の感情を表すようだった。チクワは唸るのを止め、蓮の匂いを嗅ぐように近づいた。猫の警戒が解けたことに、ルカは安心した。チクワは写し世の存在に敏感だった。蓮が危険な存在でないことを、猫の行動が示していた。
「祖父さん?」
「ええ、風見柊介。最後の気象観測員でした」
蓮は懐から古い写真を取り出した。霧見気象観測所を背景に立つ中年の男性。白衣を着て、真面目な表情をしている。写真に映る男性の眼差しには、鋭い観察力と知性が感じられた。まるで霧の向こうに何かを見ているかのような、鋭く澄んだ瞳だった。
「祖父は五年前に亡くなって、記録や機材がまだ観測所に残っているんです。大学の研究にも使えるかと思って」
ルカは写真を見て、警戒を解いた。彼の話は整合性があるように思える。また、蓮の瞳に映る誠実さと知性は、偽りのないものに感じられた。その透明な視線に、ルカは心を動かされた。
しかし、クロはまだ疑いの目を向けていた。右目の紋様が勢いよく脈打っている。チクワは蓮の周りを一周し、もう敵意は見せていなかった。むしろ、親しげに足元に擦り寄るような仕草さえしていた。
「あなたも気象学者?」
「大学院で気象学を勉強しています。祖父の記録を整理しながらね」
蓮は再び笑顔を見せた。どこか純粋で、誠実さを感じさせる青年だ。彼の目にはチヨに似た、真っ直ぐな光があった。ルカは瞬間的に既視感を覚えた。チヨと一緒に過ごした夏の日、霧の小道を歩いた記憶の断片が頭をよぎる。井戸の水音と姉の笑い声が耳に蘇った。
「一緒に行きませんか? この霧の中、一人で行くより安全でしょう」
クロは警戒的なままだったが、ルカは頷いた。何かが彼女の直感を揺さぶった—この出会いは偶然ではないという予感。チクワの態度も、その直感を後押ししていた。
「静江さんが言っていたわ」ルカは小さく呟いた。「旅の途中で導き手が現れる、と」
「そうね。私たちも観測所に向かっているの」
「目的は?」
「…研究よ」
ルカは曖昧に答えた。完全な嘘ではなかったが、本当の目的は話せなかった。蓮はそれ以上追及せず、頷いた。彼の瞳には理解があり、無理に踏み込まない思慮深さが見えた。
「じゃあ、ご一緒しましょう」
三人は山道を登り始めた。チクワが先頭を歩き、ときどき立ち止まっては蓮の方を振り返る。蓮は地図を見ながら進み、時々会話を交わす。彼の話し方は論理的で、同時に熱意に満ちていた。
「この辺りは霧が深いことで有名なんです。祖父は『霧の中に過去と未来が見える』と言っていました」
その言葉に、ルカは思わず足を止めた。それはまさに写し世の本質を表していた。蓮の祖父は、科学者でありながら写し世の存在を感じ取っていたのだろうか。
「興味深い考えだ」
クロが珍しく会話に加わった。その声には警戒心と共に、微かな関心も混じっていた。彼の右目の紋様が蓮を評価するように明滅していた。
「彼は…特殊な能力を持っていたのか?」
「能力というか…」蓮は言葉を選ぶように間を置いた。「祖父は異常に正確な気象予報ができたんです。特に霧の発生と消滅について。地元では"未来を予知する気象学者"と呼ばれていました」
「面白いわね」
ルカは本心からそう思った。写し世に関わる能力を持つ人間は珍しい。彼女自身、夢写師としてその世界と関わることができても、チヨのように直接対話することはできなかった。科学者でありながら予知能力を持つ祖父を持つ蓮に、彼女は共感を覚えた。
「それで、彼の記録を研究しているんですか?」
「ええ。祖父は暗号のような記録を残していて…解読しようとしているんです」
蓮の話は次第に熱を帯びてきた。彼の瞳が輝き、手振りが活発になる。その姿は、何かに取り憑かれたような情熱を感じさせた。科学者の冷静さと、探求者の熱意が混ざり合い、独特の魅力を放っていた。
「祖父は気象パターンと人間の記憶の関係性について研究していました。彼の仮説では、霧の濃さと記憶の鮮明さには相関関係があるそうです」
ルカは驚いた。これは夢写師の知識と重なる部分がある。彼女の祖母も同じようなことを言っていた気がする。霧に包まれると、写し世の記憶が現世に漏れやすくなる。それは夢写師の間では常識だった。
蓮がそれを科学的に研究していたと知り、ルカは心の中で何かがつながっていくような感覚を覚えた。科学と神秘の境界。それはルカの世界とも、どこかで繋がっていた。
「例えば?」
「霧が深まると人々は過去の記憶を鮮明に思い出し、霧が晴れ始めると未来の予感が強まる…そんな研究です」
蓮は目を輝かせながら続けた。彼の声には科学者の冷静さと、探求者の情熱が混ざり合っていた。
「祖父は霧梁県の気象データを50年以上記録していて、その中に周期的なパターンを発見したんです。特に七時四十二分という時間に、霧の濃度が最大になる日があるという…」
クロが急に足を止めた。右目の紋様が強く脈打ち、彼の身体が緊張で固まった。チクワも同時に立ち止まり、クロの方を見つめた。
「その理論…どこで発表された?」
クロの声には緊張が混じっていた。蓮の祖父の研究が、何か重大な意味を持つことをクロは理解したようだった。
「発表はされていません。祖父は正式な論文にはしませんでした。"科学的根拠に欠ける"と言われるのを恐れていたようです」
蓮は肩をすくめた。その仕草には科学者と神秘主義者の間の葛藤が表れているようだった。
「でも彼のノートには膨大なデータがあります。私が解読して、いつか形にしたいと思っています」




