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第46話 懐中時計の動き

二人の間に、再び沈黙が訪れた。山道を登り続けること一時間。霧はさらに濃くなり、視界は五メートルほどに狭まっていた。風の音が次第に変わり、人の囁きや遠い笑い声のように聞こえ始めた。過去の記憶が霧に閉じ込められ、風に乗って彷徨っているかのようだ。


「明日の天気、晴れるかな」「風速を記録しろ」「霧の濃度が最高値だ」「七時四十二分、記録せよ」


断片的な声が、霧の中からルカの耳に届いた。それは過去の観測員たちの声なのか、それとも彼女の想像なのか。不思議と「七時四十二分」という時刻が繰り返し聞こえる気がした。


ルカは立ち止まり、懐中時計を取り出した。針は七時四十二分を指したまま、動いていない。だが、何かが違う。


霧が濃くなるたび、ルカの胸ポケットの懐中時計が、かすかに脈打つように揺れた。それは、目に見えぬ時の歯車が、音もなく軋み始める音だった。そして、秒針が—確かに、ほんの少しだけ—動いていた。


「おかしいわ…」


「どうした?」


「時計の…針が、少し動いたような…」


クロは時計を覗き込んだ。確かに、秒針がかすかに動いている。それは儚い希望のように、微かに時を刻み始めていた。


「封印が弱まっている証拠だ。急がねばならない」


クロの声には焦りが混じっていた。右目の紋様が青く輝き、狐の面の下の表情がこわばるのを、ルカは感じ取った。その焦りは単なる急ぎではなく、何か重大なものへの恐れのようにも感じられた。


「時間の流れは一定ではない」クロが言った。「写し世と現世の境界が薄れる場所では、時計は不規則に動く。特に七時四十二分という時刻には、何かの意味があるのだろう」


観測所へ向かう道のりで、ルカはチヨの欠片について考えていた。すでに手に入れた「声の欠片」と「願いの欠片」。胸に残る喪失感と、これから待ち受ける「時の欠片」の代償。これ以上、大切な記憶を失うことへの不安が彼女の心をよぎった。


道はさらに険しくなり、時折岩場を登らなければならなくなった。霧の中では方向感覚も狂いがちだ。ルカはチヨのことを考えながら歩いた。姉はこの道を歩いたことがあるのだろうか。封印の前に、欠片を集めたのだろうか。


霧の冷たさに、ルカは身震いした。肌に触れる霧は、まるで生きているかのように感じられ、時に優しく、時に鋭く彼女の体を包み込む。その中に記憶が宿っているような、奇妙な感覚。


チクワが前方で立ち止まり、低く唸った。その金色の瞳が霧の中の何かを見つめている。背中の毛が逆立ち、尾が警戒するように左右に振れていた。


「本当に正しい方向?」


「ああ。私は霧の中でも道を見失わない」


クロの自信は、なぜか不安を煽るものだった。彼の足取りは確かだったが、まるで来たことがあるかのように迷いがなかった。


「まるであなたはこの霧の一部みたい」


その言葉に、クロは振り返った。狐の面の下の表情は見えないが、何か強い感情を抑えているように感じられる。右目の紋様が一瞬、強く明滅した。


「その表現は…悪くない」


彼の右目の紋様が青く光り、霧がその光に反応するように渦を巻いた。まるで霧の一部が彼に従うように、彼の周りで舞い始める。風にのってチヨの遠い笑い声が、一瞬だけルカの耳に届いた気がした。


「チヨ…?」ルカは思わず声を上げた。


「気のせいだ」クロが言った。だが彼の右目の紋様は強く脈打ち、その言葉に嘘があることを示していた。


夜がすでに近づいていた。石ころの多い山道はより険しく、足を踏み外しそうになる。岩壁には幾つもの古い刻印が施され、風雨にさらされながらも判別できるものもあった。「壬午年雪七尺」「天明飢饉記念」など、過去の災害と人々の記憶が岩に刻まれていた。


「祈りのしるしね」ルカはそれを指さした。「父が言っていたわ。昔の人々は重要な記憶を石に刻み、後世に伝えたと。特に天災は忘れてはならないから」


「記憶の形を変えて保存する。写し世に近い考え方だ」クロが同意した。「だが、時が経つと文字は風化し、いずれ読めなくなる。写し世の記憶も同じだ。等しく風化していく」

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