表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45/119

第45話 霧の花

山道の岩の隙間に、小さな青い花が生えていた。チクワはその花の前で立ち止まり、花を前足で優しくなぞった。花弁が青く輝き、まるで欠片のような光を放っている。


「霧の花...」クロが静かに言った。「写し世の力が漏れ出す場所に咲く」


ルカはその花に近づいた。摘み取りそうになると、クロが彼女の手を止めた。


「触れない方がいい。花はそのままに」


「でも、これが何かの手がかりかもしれない」


「花自体が手がかりではない。それが咲く場所が重要なのだ」


クロは周囲を見回した。「霧の花が咲くのは、写し世と現世の境界が特に薄い場所だけだ。観測所に近づいている証拠だな」


「月影遊園地で、あなたも欠片を手に入れたわね」


ルカの言葉に、クロの肩がこわばった。右目の紋様が激しく明滅し、何かを思い出して苦しんでいるようだった。


「何を失ったの?」


「話したくない」


その素っ気ない返事に、ルカは眉をひそめた。第4章ではもう少し打ち解けていたように感じたのに、また壁を作り始めている。その冷たさの背後に、深い痛みが隠されていることをルカは感じていた。


「私は自分の失った記憶を話したのに」


クロは立ち止まり、ルカを振り返った。狐の面の下の表情は見えないが、その声には冷たさが戻っていた。


「すべてが等価交換とは限らない。お前は必要に迫られて話した。私は…それほど親密な関係だとは思っていない」


その言葉に、ルカは傷ついた表情を隠せなかった。目の奥で何かが揺れ動き、胸に痛みが走る。いつもなら感情を抑え込むところだが、今回は違った。両親との最後の記憶を失い、初恋の記憶も手放した今、彼女の心の中で何かが変わり始めていた。抑えていた感情が少しずつ溢れ出してくる。


「わかったわ。もう聞かない」


歩き出そうとしたルカの腕を、クロが掴んだ。その手は冷たかったが、同時に震えていた。右目の紋様が弱々しく光り、内面の葛藤を示していた。


「だが…」


彼の声がわずかに柔らかくなった。狐面の下から漏れる息が、冷たい霧の中で白く凝縮する。


「チヨのことを知りたければ…それは話せる」


ルカは振り返った。クロの態度の変化に、心が少し温かくなるのを感じた。


「姉のこと?」


クロの右目の紋様が強く脈打ち、彼の声には懐かしさと痛みが混じった。霧の中で彼の姿が一瞬、別の形に見えたような気がした。人間と狐の境界が曖昧になり、その輪郭が変容していくようだった。


「チヨは…優しかった。誰よりも繊細で、誰よりも勇敢だった。彼女は写し世の声を聞き、応えることができた」


クロは言葉を選びながら、ゆっくりと語った。その声は過去の記憶を辿るような、遠い響きを持っていた。


「彼女には特別な力があった。写し世と触れ合い、そこに残る記憶と対話できる能力だ。お前のように写真を通してではなく、直接...」


ルカの中で、かすかな記憶が呼び起こされる。チヨが廃墟で佇み、誰もいないはずの空間に語りかける姿。それはいつの記憶だろう。曖昧な映像だが、チヨの笑顔と優しい声が心に蘇る。「ルカ、この声が聞こえる?」と問いかける姉の表情。それは二人が小さかった頃、父のカメラを持ち出して遊んでいた日の記憶だろうか。


「確か...姉は小さい頃から、誰も見えないものを見ていたわ」


ルカは霧に包まれた道を見つめながら言った。「私には見えなかったけど、姉はいつも『あの子が呼んでる』って言って、古い神社や廃屋に入っていった」


チクワが足元で鳴き、ルカの足に身体を擦り寄せた。金色の瞳が青く輝き、チヨの記憶に反応しているようだった。その背中の毛が一瞬、霧に反応するように立ち上がった。


「当時は恐がっていたのに、今ではその能力を羨ましく思う」ルカは小さく笑った。「でも、姉の力は彼女を孤独にもしていた。家族からも離れていくようになって...」彼女の声が途切れた。


「彼女の封印を解きたいのは…」クロは言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。「それが彼女の望みだったから?それとも…お前自身の望みから?」


ルカは答えられなかった。本当のところ、自分でもわからない。姉を取り戻したいという願いは純粋なものだが、同時に封印を解くことの意味を完全には理解していなかった。そして、解いた後に何が起きるのかも。


「両方…かもしれない」ルカは正直に答えた。「姉に会いたい。でも、それだけじゃない。何かを取り戻さなきゃいけない気がするの。私自身のためにも」


クロは静かに頷いた。右目の紋様が安定した光を放ち、彼が何かを理解したことを示していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ