第44話 霧見山への道
明日の天気は、誰にもわからない。だけど記憶は、未来を映すことがある。写したはずのものが、まだ起きていない現実に滲んでいくことがある。それは祈りに近い—忘れぬよう願う記憶が、いつか紡がれる未来を照らす。
山道は次第に急になり、森林が薄くなっていった。頭上では雲が近づき、周囲に霧が立ち込め始めている。その霧は単なる水蒸気ではなく、何かの意思を持つように揺らめき、ルカとクロの周囲で渦を巻いていた。肌に触れる霧は冷たく、しっとりとした湿り気を帯びていた。だがその冷たさの中に、微かな温もりを感じることもあった。まるで誰かの吐息が混じっているかのように。
静江はこの霧について何か言っていたな—ルカは朽葉温泉からの別れ際の言葉を思い出した。「霧の濃さと記憶の鮮明さは比例する」と。それは夢写師の間では古くから伝わる知恵だった。写し世の記憶は、霧の中でより強く現世に干渉するという。
遠くで時間の軋むような低い音が響き、ルカの耳を震わせた。まるで古い時計の歯車が回るような、あるいは過去の時間が積み重なる音のようだった。それは木々の間を通り抜け、霧の中で反響し、胸の奥に届くような低い振動となってルカの体を貫いた。
「霧見気象観測所…どんな場所なの?」
ルカは息を整えながら尋ねた。声の欠片と願いの欠片が胸ポケットで微かに脈打つ。それぞれの喪失を思い出させるように。両親との最後の会話と初恋の記憶—どちらも今はルカの中から消え去り、その空虚が時折痛みとなって心を刺した。
そのたびに姉の顔を思い浮かべる。「私がチヨを助けられなかったのに、なぜ私は幸せな記憶を持ち続ける権利があるのだろう」—その自責の念が、彼女が感情を閉ざした真の理由だったのかもしれない。チヨを探す旅を始めて以来、記憶の欠片が少しずつ戻ってきていた。それは喜びであると同時に痛みでもあった。取り戻すことと失うこと。彼女はそのバランスの上に立っていることを感じていた。
「戦前に建設された山頂の観測所だ。長らく気象データの収集に使われていたが、現在は廃墟となっている」
クロは足を止め、遠くを指さした。峰の上に、小さな建物の輪郭が見える。まだ朧げだが、確かにそこにあった。
「あれか」
霧の中にぼんやりと浮かび上がる灰色の建物。古い無線塔が、天に向かって伸びている。建物全体が霧に包まれ、まるで写し世そのものであるかのようだ。霧の中から、かすかに人の囁き声が風に乗って届いてくる。過去の観測員たちの声なのか、それとも単なる風の音なのか判然としない。
「風見柊介の場所か」クロが小さく呟いた。
「風見?」ルカは不思議に思って尋ねた。
「十年前の封印の際に立ち会った男だ。科学者でありながら、写し世の存在を理解していた珍しい人物」クロの声には懐かしさとも尊敬ともつかない感情が滲んでいた。
鉄と石と古い木材の匂いが、霧の中から漂ってきた。そこには時間の重みと記憶の堆積が感じられた。遠くからは風が運ぶ湿った土の香りと、金属が雨にさらされるときの独特の匂いも混じっている。
「まだ遠いわね」
「あと二時間ほどだ。日が暮れる前に着くだろう」
二人は再び歩き始めた。チクワが突然、霧の中から現れ、先導するように前を歩いていく。ときおり立ち止まっては霧の方向を見つめた。その金色の瞳が光るたび、霧が微かに反応するように揺れる。クロの様子は少し落ち着いたように見えたが、やはり何か違和感がある。右目の紋様の青い光が、時折強まったり弱まったりしている。心の乱れを反映しているかのようだ。
「猫がまた戻ってきたな」クロは小さく呟いた。「彼も何かを感じているのだろう」
チクワは前方を見つめ、鼻を鳴らした。何かの匂いを嗅ぎ取っているようだ。そして突然、速度を上げて先に進み始めた。
「何か見つけたのね」ルカは息を切らして猫を追いかけた。




