第43話 霧見気象観測所へ
目覚めると、ルカはメリーゴーランドの足元に横たわっていた。朝日が昇り始め、遊園地は再び廃墟の姿に戻っていた。風がゆるやかに吹き、朽ちた木馬たちが陽の光に照らされている。星の模様の木馬は静かに佇み、その目は再び無感情に前方を見つめていた。時の狭間の物理的干渉は、月の力と共に消えていった。それは魔法の一時的な幻影ではなく、しかし永続的な変化でもない—写し世と現世の間の特別な領域だった。
隣では、クロが既に起き上がり、座っていた。彼の姿勢には、いつもの冷静さが欠けていた。肩が震え、息が荒い。
「気がついたか」
「ええ…どれくらい…」
「夜が明けるまで気を失っていた」
クロの声には疲労感があった。狐の面は元通りだったが、右目の紋様の光が弱々しく、不安定に揺れていた。その光の波紋に、失われた記憶の輪郭が映っているようだった。
ルカは身を起こした。手の中には青い結晶—願いの欠片があった。かつての輝きはなく、普通の石のように見える。だが確かに、中に力が眠っているのを感じた。
「田村さんは?」
「いなくなった。おそらく彼も写し世の一部だったのだろう」
クロの声は冷静だったが、どこか悲しみを隠しているように聞こえた。
「でも…彼は実在の人物よね?」
「ああ。だが、贖罪の思いが強すぎて、写し世にも現れるようになったのさ。時の狭間では、感情が強すぎると記憶が実体化することもある。月の力が弱まれば、記憶も再び写し世へと戻る。だからこそ、我々が見ることができたのだ」
クロは立ち上がり、周囲を見回した。その動作には、どこか落ち着きのなさがあった。まるで失ったものを探すかのように。
ルカも立ち上がり、メリーゴーランドを見上げた。昨夜の魔法のような光景は消え、ただの古い遊具に戻っていた。しかし、星模様の木馬の目だけは、朝日に照らされて微かに輝いていた。
「カナという子…幸せになれたのかしら」
ルカは星模様の木馬に近づき、優しく撫でた。木馬の表面は冷たく、昨夜の温もりは消えていた。だが、手を触れた瞬間、遠い記憶のような感覚が指先を通り抜けた。喜び、悲しみ、そして希望。
「何を…失ったの?」
クロの問いに、ルカは自分の記憶を辿った。何かが欠けている。大切な何かが。頭の中に暗い穴ができたような感覚。そこにあったはずの輝きが消えている。
「私の…初恋の記憶」
それは中学生の頃の、淡い想い出。名前も顔も思い出せない。ただ、そういう経験があったことだけは知っている。心の底に残った、薄い温かさだけが、かつてそこに何かがあったことを物語っていた。
「そういうものなのね」
喪失感と共に、不思議な解放感もあった。失ったものへの執着が消え、新たな願いに場所を譲ったように。チヨの温もりが一瞬でも感じられたことで、失った記憶の痛みは少し和らいでいた。
「チクワはどこ?」
ルカは辺りを見回した。猫の姿が見えない。
「恐らく写真館に戻ったのだろう」クロが静かに答えた。「彼の役目は果たされた」
クロは立ち上がった。彼の様子がどこか違う。狐の面の下で、何かに苦しんでいるようだ。彼の歩き方が、どこかぎこちない。まるで、深い傷を負っているかのように。右目の紋様は、いつもの規則的な輝きを失い、弱々しく明滅していた。
「あなたは…大丈夫?」
「ああ…」
彼の声は震えていた。普段の冷静さが消え、感情が混じっている。その声には、深い喪失感と悲しみが滲んでいた。
「あなたも何か失ったの?」
クロは黙ったまま、ゆっくりと歩き始めた。数歩進んだところで、足を止めた。その肩は落ち、普段の凛とした姿勢が崩れていた。
「俺は…彼女との約束を…忘れた」
「彼女? 誰の…」
クロの狐面が傾き、その下から覗いた素顔の一片は、哀しみに引き裂かれたような表情だった。右目の紋様が、痛々しいほどに脈打っている。まるで流れる涙のように、青い光が頬を伝った。
「わからない。それが…代償だ」
彼の声には、ルカが今まで聞いたことのない痛みが混じっていた。クロが何を失ったのか、彼自身も完全には理解していないようだった。だがそれが彼にとって重要なものだったことは明らかだった。
「クロ?」
「行こう。次の場所へ」
彼は再び前を向き、歩き続けた。その背中には、見えない重荷が加わったように見えた。クロの狐面の下から、小さな呟きが聞こえた気がした。「どうか忘れないでくれ…」誰かへの祈りのような言葉。
ルカは追いかけながらも、彼の様子が気になった。何を失ったのだろう。そして、なぜそれほど動揺しているのか。「彼女との約束」—それはチヨに関することなのだろうか。声の欠片を使った時とは違う、深い痛みがクロから伝わってきた。
「次はどこ?」
「霧見気象観測所だ。山の頂にある」
クロの声は少しずつ、いつもの調子を取り戻しつつあった。だが、その奥に新たな傷が生まれたことは明らかだった。
「そこには…」
「『時の欠片』がある。時間の流れと予知を司る欠片だ」
二人は遊園地を後にした。ルカはポケットに二つの欠片を入れ、その重みを感じる。声の欠片と願いの欠片。両親との最後の会話と、初恋の記憶。それらを代償として失った。
彼女はもう一方のポケットの影写りの粉にも触れた。黒い粉はまだ使われていなかったが、不思議と暖かさを感じた。静江の言葉を思い出す。「最後の封印に必要になる」。今はまだその時ではないようだ。
朝日の中、振り返ると、月影遊園地の観覧車が金色に輝いていた。星模様の木馬を乗せたメリーゴーランドも、朝の光の中で静かに佇んでいる。どこかで風が吹き、古いチケット売り場の紙切れが舞い上がった。
遊園地が少しずつ視界から消えていくなか、ルカはふと思った。カナという少女とチヨは友達だったのだろうか。もしそうなら、姉はこの場所にも来ていたはずだ。なぜそんな記憶がないのだろう。チヨの人生には、まだ知らない部分がたくさんあるのかもしれない。
「クロ」
ルカが静かに呼びかけた。
「欠片が全部集まったら、私は姉に会えるの?」
クロは立ち止まり、振り返った。その表情は面に隠されているが、右目の紋様が不安定に明滅していた。
「それは…お前次第だ」
「どういう意味?」
「選択の時が来る。お前が何を望むかによって、結末は変わる」
曖昧な答えだったが、ルカはそれ以上追及しなかった。クロ自身、まだ完全には理解していないのだろう。あるいは、理解していても言えないことがある。
だが、まだ道は続いている。チヨの記憶を完全に取り戻すため、そして封印の真実を知るために。
遠くの山頂に、霧見気象観測所の小さな影が見えた。次なる目的地。それは、さらなる記憶と、さらなる喪失を意味していた。
ポケットから影向稲荷の札を取り出し、ルカはそれを見つめた。「これが姉の記憶を取り戻す助けになる」と静江は言った。観測所では、この札が必要になるかもしれない。
「霧の中で、私たちは何を見つけるのかしら」
ルカは呟いた。失われた記憶の痛みと、チヨの姿を一瞬見た喜び。相反する感情が胸の中で渦巻いていた。一瞬だけ触れたチヨの温もりの記憶が、彼女の心を強く支えていた。
「姉を救えなかった自分を許せない」彼女は心の奥深くで思った。だからこそ、感情を閉じ込め、自分を追い詰めてきたのだ。だが今、少しずつその氷が溶け始めているような感覚があった。
そして、彼らの上に朝靄が漂い始めた。まるで、未来を覆い隠すように。チクワが足元で低く唸り、霧の方向に金色の瞳を光らせた。まるでチヨの気配を追うように、一瞬、その背が青く輝いた。未知の記憶と新たな試練へと続く旅は、次の一歩を踏み出そうとしていた。




