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第38話 クロの喪失

「クロ、あなたも…欠片を使ったことがある?」


彼は一瞬、足を止めた。右目の紋様が強く光り、面の下の表情が緊張するのが感じられた。紋様の青い光が周囲の空気に反射し、彼の姿が幻想的な影となって地面に伸びる。


「ある」


その一言は、重みを持っていた。


「何を…失ったの?」


「覚えていないさ。それが欠片の皮肉だ。失った記憶は、失ったことすら覚えていない」


その言葉に、ルカは言葉を失った。自分は両親との最後の会話を失ったことを知っている。でも、もし失ったことさえ気づかない記憶があるとしたら?その考えが彼女の背筋に冷たい震えを走らせた。


クロが再び歩き始めたとき、彼の足取りに微かな躊躇があるのに気づいた。何かを隠している—その直感がルカの心をよぎった。右目の紋様が不規則に明滅し、彼の内面の動揺を物語っていた。


「お前がチヨのように、完全に写し世と接触できるなら、もっと楽だったんだがな」


ふと漏れた言葉に、ルカは立ち止まった。クロの声には慣れない感情が混じっていた。懐かしさと痛み。


「姉は…写し世と話せたの?」


「ああ。彼女には特別な才能があった。写し世の声を聞き、応えることができた。お前とは違ってな」


「それで、姉は…」


「その話はやめておけ」


クロの声が冷たくなり、再び無表情な狐面だけが月光を反射した。それでも、ルカには彼が何かを思い出して苦しんでいるように見えた。


木々が途切れ、開けた場所に出た。そこに広がっていたのは、かつての遊園地だった。錆びついた鉄柵、色あせた看板。「月影遊園地」の文字が、かろうじて読める。「月光の下で願いが叶う」というキャッチフレーズも、半ば消えかかっていた。


「ここが…」


「ああ。昭和四十年代に開園し、バブル崩壊後に閉鎖された場所だ」


夕日が遊園地全体を赤く染めている。観覧車、ジェットコースター、お化け屋敷。すべてが朽ち果てた姿で立っていた。空気には古い金属の錆と湿った土の匂いが混ざり、かすかに甘い香り—綿あめやポップコーンの記憶だろうか—も漂っているような気がした。風がメリーゴーランドの木馬たちを通り抜け、幽かな軋みを生み出していた。その音色は弱々しい笑い声のようにも聞こえた。


しかし、その廃墟の中にも奇妙な美しさがあった。特に目を引くのは、中央に位置するメリーゴーランド。木馬たちが、まるで乗り手を待ち続けているかのように静止している。その姿には威厳があり、時間の波に洗われながらも決して屈しない気高さがあった。


「あそこに欠片があるのね」


ルカはメリーゴーランドを指さした。その瞬間、不思議と胸が高鳴るのを感じた。まるで何かが彼女を呼んでいるかのように。突然、チクワが足元で鳴き、金色の瞳がメリーゴーランドの方向で青く輝いた。


ルカは驚いて振り返った。「チクワ? どうしてここに?」


猫は静かに彼女の足元に座り、じっとメリーゴーランドを見つめていた。どこからともなく現れた猫の存在に、クロも明らかに驚いていた。右目の紋様が強く明滅し、緊張が伝わってくる。


「写し世との繋がりが強い場所では、彼のような存在も境界を越えてくる」クロが静かに説明した。「彼もまた、導き手なのだろう」


チクワは尻尾を揺らし、先へと進んでいった。その足取りには確信があり、まるでこの場所を知っているかのようだった。


「ここにある欠片は?」


「『願いの欠片』だ。未来への希望を司る」


クロは静かに言った。その声には、どこか悲しげな響きがあった。右目の紋様が青く明滅し、月光と呼応するように光の波紋を描いていた。


「使えば何が起きる?」


「叶えたい願いが、少しだけ形になる」


「代償は?」


クロは少し間を置いて答えた。彼の右目の紋様が青く瞬き、言葉を選ぶように間がある。


「『初めての希望』の記憶だ。欠片は常に等価以上の代償を求める。特に強い感情が結びついた記憶を選ぶ」


ルカは胸の内で考えた。初めての希望。それは何だっただろう。記憶の奥を探る感覚。そこに何があるのか、自分でも分からない。胸ポケットの声の欠片が温かく脈打ち、何かを伝えようとするかのようだった。


「影写りの粉は、持ってきた?」クロが突然尋ねた。


「ええ、静江さんに貰ったものね」


ルカはもう一方のポケットから小さな袋を取り出した。黒い粉は光を吸収するほど暗く、手のひらに乗せるとわずかに震えた。


「それは最後の欠片を手に入れる時に必要になる。今は使わないが、いつも持っているといい」


クロの指示に従い、ルカは粉を慎重にポケットに戻した。なぜ最後に必要なのか疑問に思ったが、今は問わないことにした。


「入りましょう」


二人はチクワに導かれるように朽ちた鉄柵をくぐり、遊園地に足を踏み入れた。夕暮れの光の中、廃墟はどこか幻想的に見える。錆びた回転ドアは固く閉ざされていたが、横の小さな通用口から中に入れた。


足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。どこか懐かしい、甘い香り—綿あめやポップコーンの匂いが、かすかに漂っているようだった。そして、ほのかに響く音楽のフレーズ。それは風の音に紛れて消えたり現れたりしていた。


「不思議ね。こんな山の中に遊園地があったなんて」


「ここは特別な場所だった。『月光の下で願いが叶う』という噂で人気を博したんだ」


クロは歩きながら説明した。彼の狐面が月明かりに照らされ、面の凹凸に浮かぶ影が動き、まるで生きているかのようだった。


「だが、それは単なる噂ではなかった。この地には古くから神秘的な力があり、月の満ち欠けに影響を受ける。この場所は、月の影響を受ける地脈の上に建てられている。それが時の狭間を強化しているんだ」


「地脈?」


「そうだ。写し世の力は地脈に沿って流れる。特定の場所では現世に干渉し、影響を与える。チヨも…その流れを感じ取ることができた」


クロの声が少し震えた。彼はメリーゴーランドを見上げ、一瞬だけ右手を伸ばした。まるで誰かに触れようとするかのように。


「知っているか?霧梁県の北部には、『夕霧村』という不思議な村がある。地図にも載っていないが、記憶を失った人々が暮らしているという」


ルカは驚いてクロを見た。「そんな村があるの?」


「ああ。十年前の封印の後、村の人々は自分たちの記憶を失った。彼らは今も暮らしているが、自分が何者か知らないまま」クロの声は低く、苦痛を隠すような調子だった。


ルカは返答せず、その情報を心に留めた。クロは何かを知っている—チヨの封印と、忘れられた村の関係を。

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