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第33話 湯気の人影

写真の力で、霧島の思いが言葉となって現れた。だが、それは同時に他の変化も引き起こした。湯気が激しく渦巻き、部屋の隅々から人影が湧き上がり始めた。旅館に滞在した人々の記憶だ。彼らは霧島とは違い、顔が見えない。霧のような形をしているが、人の輪郭ははっきりしている。


「忘れられた…」「約束が…」「戻りたい…」


断片的な声が、湯気の人影たちから漏れ出る。彼らはルカに向かって手を伸ばし始めた。冷たい恐怖が背筋を走る。


「これは…」


ルカは一歩後ずさった。人影たちが近づき、湯気がより濃密になる。息苦しさを感じ始めた。写し世の存在に正面から向き合う恐怖。写祓と同じだが、今回は自分の記憶も揺れ動いている。彼らの感情がルカの内側に流れ込み、抑制を解いていく。


湯気の中を進んだ。霧島の姿を追って。すると突然、別の光景が現れた。火災の炎。逃げまどう人々。「データを! データだけでも!」と叫ぶ霧島。炎の中を駆け回る彼の姿。そして倒れる瞬間。


「火災で…研究データが…失われた」


ルカは理解し始めた。彼の研究は火災で失われた。それが霧島を縛り付けている悔恨なのだ。だが、ただ理解するだけでは写祓は完了しない。写し世の存在の本当の願いを汲み取る必要がある。


「あなたの研究データを探しているのね?」


霧島の姿が再び凝縮した。彼は必死に頷いている。その目は疲労と絶望に満ちていたが、ルカの言葉に希望の光が灯った。


同時に、湯気の人影たちがルカを取り囲み始めた。「忘れた!」「約束を破った!」「取り返せない…」混乱した声が重なり、空間が振動する。湯気が彼女の体を締め付け、呼吸が困難になる。冷たい恐怖が全身を包む。時間の流れが歪み、彼女は一瞬、自分が水中にいるような錯覚を覚えた。


一つの人影が彼女の腕に触れた。その冷たい感触に、ルカは身震いした。接触した瞬間、彼女の記憶が一瞬揺らぎ、チヨとの約束の断片—「病気になった人を救う」という言葉が頭をよぎった。まるで湯気の人影が彼女の精神に侵入し、記憶を探り出したかのような感覚だった。


ルカはカメラを構えた。今度は写祓の技術で、写し世の迷いを解放するために。だが、人影たちの声があまりにも強く、彼女の集中力を乱す。


「霧島誠一さん。あなたの研究は、無駄ではなかった」


シャッターを切る前に、ルカは心を込めて語りかけた。写祓の途中で止めることは危険だと、本能が告げていた。写し世の存在を浄化するには、彼らの望みを理解し、受け入れる必要がある。


「時間があれば、きっと証明できたでしょう。でも、それは…」


言葉に詰まる。何と言えばいいのか。湯気の人影たちが彼女の周りで渦巻き、声が耳を刺す。「約束を破った」「忘れてしまった」その言葉が、ルカ自身の心に突き刺さる。チヨとの約束…忘れてしまった約束…「いつか病気の人を治せるようになりたい」という幼い自分の言葉と、それに微笑む姉の表情。


突然、背後から声がした。


「あと一日、一時間あれば…そう思っているんだ」


振り返ると、クロが立っていた。彼の声は通常より柔らかく、どこか遠い響きを持っていた。右目の紋様が強く光り、青い光が湯気に映えている。


「クロ? どうして…」


「私は知っている。彼の悔いを」


クロは霧島に近づいた。霧島は驚いた表情でクロを見つめている。クロの姿を包む青緑の霧が強まり、一瞬だけ彼の影が九つの尾を持つように見えた。


「私も…時間が足りなかった」クロは静かに言った。「大切なものを守れなかった。でも」彼の目が霧島を見つめる。「あなたの研究は失われていない。湯の成分が特定の病に効くという仮説は、後の研究者によって証明された」


クロの言葉に、霧島の表情が変わった。希望の光が灯るように。

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