第32話 霧島誠一の出現
大浴場の引き戸を開けると、意外なことに内部は比較的よく保存されていた。広い湯船、タイル張りの床、高い天井。しかし異様なのは、部屋全体が薄い湯気に包まれていること。それは現実の蒸気ではなく、半透明の記憶のようだった。
湯気に触れた瞬間、空間が歪んだ。温かな空気が肌を包み、同時に時間感覚が狂い始める。足を踏み出すたびに、床が波打つように揺れる。ルカの白いシャツが青みがかって見え、カメラが銀色から金色に変化したように見えた。写し世の色彩反転の法則だ。彼女の体感時間が鈍くなり、一歩一歩が水中を歩くような重さを帯びていた。
ルカは静かに前進した。湯気は彼女の周りで奇妙に動く。流れ、渦巻き、時に人の形を思わせる。耳に不思議な音が届く——笑い声、会話の断片、水の音。過去の記憶が音となって漂う。
カメラを準備するルカの目の端に、一瞬、人影が過った。——赤い装束の少女が、湯気の向こうに佇んでいたような。「誰かいるの…?」
ルカが声を出すと、湯気がさらに渦を巻いた。音が増幅され、空間が震える。ルカの言葉が過去へと伝わり、過去からの反響が彼女に返ってくる。突然、目の前に一人の男性が現れた。中年の、知的な表情の男性だ。白衣を着て、眼鏡をかけている。
「あなたは…?」
男性は口を開くが、声は聞こえない。彼は何かを必死に伝えようとしているように見える。その姿は半透明で、湯気の中に溶け込みそうになったり、鮮明になったりを繰り返す。
「聞こえません。もう一度…」
男性はフラスコのような何かを手に持ち、それをルカに見せている。実験器具だろうか。白衣の襟元にはネームプレートがあり、かすかに文字が見える。
「あなたは研究者? 霧島…さん?」
男性は激しく頷いた。その表情が喜びに変わり、さらに彼の姿が濃密になった。そして突然、彼の表情が変わる。恐怖と焦燥で満ちた表情に。彼は再び何かを言おうとする。今度は、かすかに声が聞こえた。
「データが…時間が…」
男性の後ろで、過去の光景が湯気の中に浮かび上がる。白衣を着た人々が忙しく動き回る研究室。温泉の湯を試験管に取り、顕微鏡で観察する様子。そして突然、炎が画面を覆い、悲鳴が響く。時間の軋むような音が鮮明になり、空間が震えた。
「火災…研究データが燃えた?」
ルカは眉をひそめた。湯気の中の幻影との会話は初めてではないが、これほど明確な姿と声は珍しかった。声の欠片を求める彼女の心が、この強い未練の魂を引き寄せたのかもしれない。彼自身の記憶も、欠片と共鳴していた。強い感情が湯気をより濃密にし、両者の間に写し世の繋がりを作り出している。
「あなたの名前は?」
男性は口を動かした。「霧島…誠一」
声は入り江から聞こえる波のように、断続的に響いた。
「霧島さん、何かお手伝いできることは?」
男性—霧島誠一は、やはり何かを伝えようとしている。だが湯気が濃くなり、彼の姿がぼやけ始めた。同時に、周囲の温度が急激に上昇。湯気の中から、火災の熱気が漏れ出してくるようだ。
「待って!」
ルカは反射的にカメラを構えた。写し世の存在を留める方法は写真しかない。ファインダーを覗くと、霧島の姿が鮮明に見えた。彼の目には絶望と未練が混じっている。
シャッターを切る。カシャリ。
閃光が湯気を貫き、一瞬、空間が凍りついたように見えた。その瞬間、霧島の声が明瞭に聞こえた。
「温泉の…治癒力を…証明したかった…あと一日、あと一時間あれば…」




