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第31話 湯気の記憶

入口に立つと、空気が変わった。ほんのり湿った温かさが肌を撫で、遠い記憶を呼び起こす。ルカの皮膚が敏感に反応し、一瞬だけ彼女の黒いコートが白く見え、周囲の色彩が反転した。写し世の干渉だ。温泉旅館は特に写し世との境界が薄い。数多の人々が過ごした感情と記憶が、建物そのものに染み込み、時間の通路を作り出している。


「入りましょう」


ルカが一歩を踏み出した瞬間、風が吹いた。冷たく、どこか懐かしい香りを含んだ風。彼女の背筋に震えが走る。髪が宙に浮くような感覚——それは写し世の気配だった。声の欠片の存在を感じ取ったのかもしれない。


古い引き戸を開けると、広い玄関ホールがあった。埃と朽ちた木の匂いがする。天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がり、かつての豪華な調度品も打ち捨てられたままだ。しかし、目を凝らすと、影の中にかすかな動きが見える。まるで過去の旅行客の幽霊が、今も往来しているかのように。


「夕方になると、湯気が立ち込める時間がある」


クロが言った。「かつてのご主人の習慣で、毎日午後六時に湯を沸かしていたからな」


「まだ… 機能してるの?」


「いや、配管は壊れている。だが、写し世の記憶は繰り返される」


クロの言葉に、ルカは辺りを見回した。確かに、部屋の隅々から微かな湯気が立ち始めていた。それは現実の蒸気ではなく、半透明の記憶のようだった。温泉旅館特有の硫黄の匂いが、かすかに漂う。ルカは不意に、影向稲荷の泉の水を思い出した。チヨが「この水は特別」と言って、現像液に混ぜていたことを。


ルカは時計を見た。五時四十分。あと二十分で、幽霊のような湯気が現れるというのか。時間が経つにつれ、空気が濃密になっていくのを感じる。まるで水中に沈むような、不思議な圧迫感。


「大浴場はどこ?」


「裏手だ。ついてこい」


二人は朽ちた廊下を進んだ。床板が軋む音が、不気味に空間に響く。ルカのカメラバッグが重く感じられた。懐中時計がポケットの中で脈打つような気がする。心の準備をしつつ、彼女は深呼吸した。この場所で何か重要なものを見つけるという確信と、同時に何かを失うという恐れ。写祓の危険と同じだ。写し世に触れれば触れるほど、自分の記憶も危うくなる。


廊下の壁に古い写真が掛かっていた。昭和初期の旅館の全盛期を写したもの。笑顔の客たち、整然と並んだ仲居さんたち。かつての賑わいが、今の廃墟と対照的だ。遠く、笑い声と湯船に浸かる音が幻聴のように聞こえた。過去の記憶が、音となって空間に滲む。


「この場所…時間が歪んでる」


ルカは感じた。廊下を進むにつれ、時計の針が不規則に動いているような感覚。一歩進むごとに、過去と現在が入れ替わるような目眩。一瞬、自分が七歳に戻ったような錯覚。廊下の向こうにチヨの後ろ姿が見え、姉に追いつこうとする幼い自分。それは記憶か、それとも写し世の幻か。


「写し世と現世の境界が薄いんだ」クロが言った。「特に、強い思いが残る場所では」


廊下の端に扉があり、そこを抜けると広い庭園に出た。苔むした石の小道を通り、小さな橋を渡る。その先に大きな木造建築がある。大浴場だ。


「気をつけろ。ここから先は、時間が不規則に流れる」


クロの警告を聞いて、ルカは懐中時計を取り出した。針は七時四十二分を指したまま。だが微かに震え、金属が脈打つような感覚が手のひらに伝わる。


「これは常に同じ時間を指しているわ」


「だが、お前の体感時間は変わる。気をつけることだ」


クロの紋様が強く光り、彼の緊張が高まっていることを示していた。この欠片に対して特別な関心と不安を抱いているようだった。普段の冷静さの中に、微かな焦りが滲んでいる。彼の指先が震え、それを隠そうとしている様子だった。


大浴場の入口で、クロは立ち止まった。


「ここからは一人で行け」


「え? なぜ?」


「欠片は、それを求める者にしか現れない。お前が一人で向き合わねばならない」


その言葉の裏に、何かを隠しているような響きがあった。クロは面の下で唇を噛みしめたように見えた。青緑の霧が彼の周りで渦を巻き、影が九つの尾のように地面に広がった。


「でも…何をすればいいの?」


「湯気の中に入り、耳を澄ませ。囁きが聞こえるはずだ」クロは言葉を選ぶように間を置いた。「そして…姉との約束を思い出せ」


ルカは躊躇した。姉との約束…それは何だったのか。心の奥に埋もれた記憶が、水面下で蠢くように感じる。「いつか一緒に来よう」「約束だよ、必ず」という断片的な会話。


「なぜあなたは…そんなに詳しいの?」


「俺は…」クロの声が震えた。「写し世の記憶の断片を長年集めてきた。欠片について…ずっと探っていた」


言葉を濁すクロに、ルカは疑念を抱いたが、今はそれを追及する時ではなかった。


「行ってくる」


ルカは深呼吸をした。カメラバッグから35mm一眼レフを取り出し、首から下げる。その重みが、現実への錨のように感じられた。静江から受け取った影写りの粉の袋をポケットに入れ、いつでも使えるようにする。

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