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第30話 朽葉温泉旅館への道

誰かの記憶に触れるたび、私は少しずつ沈んでいく。まるで湯けむりの中に溶けてしまうみたいに。でも、沈んだ先で見える景色こそが、きっとその人が最後に残したかったもの。


「ここに、まだ残っているかもしれない——」ルカの指先が、古びた地図の一角に触れる。その場所には、かすかに『朽葉温泉旅館』と書かれていた。「あの約束の場所、か…」


ルカは古い地図を指でなぞった。久遠木から東へ十キロほど、山間の細い道を進んだ先にある。かつては名湯として栄えたが、今は廃墟となって四十年。指先が地図の上を辿る間も、胸元の懐中時計が微かに脈打つように感じられた。時計の針は止まったままだったが、不意にルカの胸元で微かな震えを伝えた。——まるで、記憶が疼いたように。


「知ってるの?」


クロはルカの横顔を見た。右目の紋様が青く明滅し、彼の関心を物語っていた。風が吹き抜け、一瞬彼の輪郭が青緑の霧に溶け込むように揺らいだ。


「新聞で読んだことがある。四十年前に火災があって…」


言いかけて、ルカは首を振った。それは読んだ記憶ではなく、誰かから聞いた話だった。晴れた日の縁側、桜の花びらが散る中、穏やかな声で語られた物語。


「チヨが教えてくれたのね」


その名前を口にすると、脳裏に映像が流れ込んだ。七歳のルカと十二歳のチヨ。「ねえ、いつか二人で行こうね。あの温泉、治癒の力があるんだって」と笑う姉の顔。遠く、時間の軋むような音が響き、その声が過去からの反響のように彼女の耳を震わせた。「ここなら、心も体も癒される」というチヨの言葉が蘇る。どこか期待を込めた表情で、姉は小さな彼女の手を握っていた。


クロは無言で頷いた。面の下の表情は見えないが、彼の姿勢からは何かを隠しているような緊張が感じられた。二人は森の中の狭い山道を進んでいた。陽は傾き始め、木々の間から漏れる光が斑模様を地面に描いている。


「この先で一泊するつもりか?」


「ええ、日が暮れる前に着きたいわ」


実際には、朽葉温泉旅館はルカの写祓の仕事で一度だけ訪れたことがあった。だが、それは表面的な仕事だった。旅館の所有者から「時々、湯気の中に人影が見える」と依頼され、簡単な写祓を行っただけ。深く関わらなかった場所だ。しかし今、再び訪れると思うと、心が不思議と騒ぐのを感じた。湯気に包まれた幼い頃の記憶が、断片的に蘇ってくる。チヨと手をつなぎ、木の廊下を歩く足音。温泉の硫黄の香り。遠い笑い声。


「そこには…どんな欠片があるの?」


「声の欠片」クロが答えた。「言葉と約束を司る欠片だ」


彼の声には、いつもの冷静さの下に、かすかな熱が混じっていた。紋様が強く光り、その青い輝きが顔の半分を照らす。


「どうやって見つけるの?」


「見つける必要はない。それは自ら現れる」クロは立ち止まり、ルカを見つめた。「問題はそれを手に入れる方法だ。お前は…代償を払う覚悟があるか?」


ルカは黙って前を見た。心の片隅で、失うものへの恐れを感じた。だが、それ以上に強いのは姉の声を取り戻したいという願い。懐中時計が胸ポケットの中で震え、心臓の鼓動と共鳴するように感じられた。


道が開け、視界が広がった。谷あいの霧が晴れた瞬間、沈黙を守るように立ち尽くす旅館の影が見えた。屋根の一部は崩れ、窓には風の鳴く音が響いていた。まるで"忘れ去られた記憶"が形を保っているかのように——。朽葉温泉旅館だ。明治時代の面影を残す立派な和風建築。だが、今はその姿も朽ち果て、廃墟と化していた。屋根の一部が崩れ、壁には蔦が絡みつき、かつての威容を自然が飲み込もうとしていた。


「なんだか…懐かしい」


ルカの言葉に、クロが足を止めた。


「来たことがあるのか?」


「仕事で一度。だけど、その前にも…」


頭の中で記憶が揺れる。幼い頃、どこかで見た光景。湯気の向こうの笑顔。母の手を引かれて廊下を走る足音。それは本当の記憶なのか、それとも欲しい記憶が生み出した幻なのか。父のカメラを構える手、母の穏やかな横顔。家族の断片的な記憶が、霧のように曖昧に浮かんでは消える。


二人は旅館の前に立った。「朽葉温泉旅館」と彫られた古い木の看板が、今にも落ちそうに傾いている。入り口には「立入禁止」の札が下がっているが、風雨で色あせていた。

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