第29話 旅立ちの決意
クロの狐面が傾き、その下から覗いた素顔の一片は、哀しみに引き裂かれたような表情だった。右目の紋様が、痛々しいほどに脈打っている。まるで流れる涙のように、青い光が頬を伝った。
「わからない。それが...代償だ」
彼の声には、ルカが今まで聞いたことのない痛みが混じっていた。そして一瞬、声の調子が変わり、女性の声の残響が混ざったように聞こえた。「忘れてしまった...彼女との約束を」
ルカは驚いてクロを見つめた。その一瞬の声の変化が、彼の正体についての新たな疑問を投げかけていた。
「お前自身の選択の時が来る」
クロの語調が再び冷静さを取り戻す。そこには確信があり、同時に言いよどむような躊躇いもあった。何か言えない秘密を抱えているようだった。彼の姿から滲み出る青緑の霧が、壁に映る影を歪ませる。
「五つの能動的欠片があると聞いたわ。最初はその『声の欠片』で、残りの四つは?」
「それは探せば分かる。だが、写し世からのヒントはある」クロは窓の外の霧を見つめた。「朽葉温泉、月影遊園地、霧見観測所、鏡写樹海、そして——」彼は言葉を切った。最後の場所の名前を言うことを躊躇っているようだった。
「どんな能力を持つの?欠片は」
「それぞれ異なる。声、願い、感情、記憶...そして選択」クロの声は静かになった。「だが代償も大きい」
ルカは静かに考えた。失っても構わない記憶はあるだろうか。それを考えること自体、残酷な選択だった。しかし、その答えは既に心の中にあった。
「準備する。少し待って」
彼女は姉の部屋に戻り、壁の写真を一枚外した。自分とチヨが映った写真だ。写真を手に、ルカは部屋を見渡した。桜の香り、姉の気配が残る空間。
「必ず戻ってくるよ、姉さん」
その言葉は自然と口から出た。写真を大切に鞄に入れ、カメラと現像液、そして静江から受け取った封筒と影写りの粉も入れた。封印された記憶と真実を追い求める旅の準備。
鞄を閉じようとしたとき、ふいに耳の奥に声が蘇る。「行ってらっしゃい、ルカ」小さな、柔らかい声だった。目を閉じると、その響きが胸に刻まれた。涙が頬を伝い、彼女は急いでそれを拭った。
階下に降りると、クロが静かに待っていた。彼の姿勢には緊張と期待が表れていた。チクワは窓辺に座り、金色の瞳で二人を見つめていた。写し世が渦巻くなか、唯一の安定した存在のように。
「行きましょう」
ルカの声には、昨日までの自分にはなかった決意が宿っていた。懐中時計が微かに脈打ち、彼女の決意に呼応するかのように感じられた。
「お前は強い。それともただ、思い出すことを恐れていないのか」
クロの言葉には皮肉めいた響きがあった。しかし、その声の下には別の感情が隠れていた。賞賛だろうか、それとも嫉妬だろうか。その二重音の響きが、何かを伝えようとしているようでいて、言葉にならない。不思議と温かい思いやりを感じる声だった。
「どっちでもいい。姉の記憶を、私は取り戻したい」
出発前、ルカは現像室に立ち寄った。そこに置いてあった懐中時計を胸ポケットに入れる。針は七時四十二分のまま。
「これがチヨの...最後の瞬間なのね」
手のひらに時計を載せると、その冷たい金属が脈打つように感じられた。ルカは目を閉じ、その鼓動に意識を集中させた。微かに、遠くから、姉の声が聞こえるような気がした。
「わたしのことを、ずっと覚えていてね」
その声は記憶なのか幻なのか。だが確かなことは、ルカの心は今、姉を求めていた。今まで抑えていた感情が静かに溢れ出す。あの凍った湖の氷が、春の訪れとともに少しずつ溶け始めるように。
「行こう」
クロは玄関で待っていた。彼の紋様が青く輝き、まるで彼自身も何かに導かれているかのような緊張感が漂っていた。霧が周囲で渦巻き、その姿を青く浮かび上がらせている。普段にも増して霧の異常が強まっていた。
廃墟を目指し、二人は霧の中を歩き始めた。チクワは窓辺で、その姿が見えなくなるまで見送っていた。その金色の瞳に、一瞬だけ青い光が灯ったのは、ルカには見えなかった。遠く、時間の軋む音が静かに響き、過去の記憶が音となって空気を震わせた。
旅が始まる。記憶を取り戻す旅。そして、選択の時へと向かう旅。




