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第26話 静江の訪問

二人が下に降りると、静江は既に玄関で靴を脱いでいた。チクワが彼女に擦り寄り、老婆は猫の頭を優しく撫でた。猫は喉を鳴らし、まるで古くからの友人に会ったように静江の足元にすり寄った。


「もう会えたようだね、記憶の片割れと」


静江はクロを見て言った。彼は面を付けたまま、無言で頷いた。老婆の眼差しには、慈愛と共に、どこか哀しみが宿っていた。


「何か思い出したかい、ルカ?」


「少しだけ...姉の部屋を見ました」


ルカの声には感情が滲んでいた。もはや抑制する必要を感じなかった。


「そうか。まだ少しだけか」


静江はため息をついた。皺だらけの手でチクワの毛を梳きながら、彼女は遠い記憶を見つめるように目を細めた。


「チヨはね、この猫を影向稲荷で拾ったんだよ」静江は静かに言った。「生まれたばかりの子猫だった。『猫は写し世と現世の架け橋になる』と言って、大切に育てていた」


「チクワも…チヨを覚えているの?」


「もちろんさ。動物は人間より記憶に正直だからね」


静江は立ち上がり、深い息を吐いた。外から時間の軋む音が聞こえ、空気が震えた。


「今日、お前を追って来たのはこれを渡すためだ」


老婆は古い封筒を差し出した。黄ばんでいるが丁寧に保管されていたようだ。表面には桜の花びらが描かれ、淡いピンク色が時の流れにも色あせていなかった。


「これは?」


「十年前、チヨが私に預けたものだ。『もし自分に何かあったら、ルカが18歳になったら渡してほしい』と」


ルカは封筒を受け取った。表には「ルカへ」と書かれていた。姉の筆跡だ。封筒を手にした瞬間、再び桜の香りが漂い、彼女の心を揺さぶった。


「なぜ今まで...?」


■チヨからの手紙


「いや、私は渡したさ。四年前、お前が18歳になった時に。だが...」


静江は悲しげな表情をした。彼女の目に光る涙が、歳月の重さを物語っていた。


「お前は既にチヨのことを忘れていた。封印は予想以上に強力だったんだ。だから、記憶が戻るまで待つしかなかった」


ルカは封筒を胸に抱いた。微かに桜の香りがする。チヨの最後のメッセージ。何が書かれているのか、恐れと期待が入り混じった。


「クロさん、これを知っていたの?」


「いや」


クロは静江を見た。二人の間には何かの緊張があるように感じられた。言葉にできない秘密が、二人を結びつけ、同時に隔てているような。


「私も知らなかった。チヨが何か残したなんて」


「彼女は賢かった」静江は言った。「何が起こるか予測していたんだろう。だが一つ警告しておく。中身を見るのは、少なくとも三つの欠片を見つけた後にするべきだ」


「どうして?」


「そうでなければ、内容を理解できないだろうから。あるいは...理解して、後悔するかもしれない」


静江の言葉は謎めいていた。老婆の目には古い知恵の光が宿り、月光のように柔らかく、しかし冷たい輝きを放っていた。周囲に時間の波紋が広がり、壁の影が歪むように見えた。


「チヨは最後の日、こう言っていた」静江は静かに続けた。「『もしルカが私を思い出してくれたら、それは彼女が選んだということ』とね」


「選んだ?何を?」


「それはお前自身が見つける答えだよ」


ルカは頷いたが、内心では早く見たいという衝動に駆られていた。封筒の中身を知りたい気持ちと、真実を怖れる気持ちが交錯していた。欠片は記憶を呼び覚ますとともに、記憶を奪う。そうして得た真実は、必ずしも幸福をもたらすとは限らない。

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