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第23話 チヨの日記

障子を開けると、そこには小さな和室があった。畳の上には桐の箪笥、小さな机、そして窓際に置かれた三脚と古いカメラ。壁には写真が何枚か飾られている。


「ここが...姉の部屋」


ルカは一歩、部屋に足を踏み入れた。かすかに香りがする。桜の香り。その瞬間、視界が揺らいだ。閉じた目の裏に映像が流れる——桜の木の下で笑う少女、自分の手を引く温かな手のひら、「ルカ、こっちだよ!」という声。遠く、風の中に鈴の音色が混ざり、記憶の波紋が広がるように感じた。


「姉は...桜が好きだったのね」


言葉にした瞬間、ルカはそれが真実だと確信した。彼女が憶測で言ったのではなく、忘れていた記憶が蘇ったのだ。目に涙が浮かび、喉が熱くなった。


「花見の季節になると、チヨはいつも早起きして写真を撮りに行っていた」


クロは部屋に入らず、入口で腕を組んだ。彼の姿勢には緊張感があり、まるでこの部屋に入ることを躊躇しているかのようだった。彼の右目の紋様が青みを増し、息が荒くなっているのがルカには見て取れた。彼の周囲で霧が歪み、光の反射が異常になる。写し世の干渉だ。姉の部屋という記憶の場所が、写し世との境界を薄め、クロの存在を不安定にしているようだった。


「お前も一緒に行っていたはずだ」


「そう...だったと思う」


ルカは箪笥に近づき、引き出しを開けた。その中には丁寧に畳まれた着物が数枚。ルカは思わず手を伸ばし、布に触れた。柔らかな絹の感触に、目の奥がしくしくと痛んだ。着物の下から、革張りの小さな手帳が出てきた。


「これは...」


手に取ると、古いインクのにおいがした。そして再び、桜の香り。開くと、美しい筆跡で日記が書かれている。


「チヨの日記...」


ルカはゆっくりとページをめくった。インクの匂いが鼻をつき、その一文字一文字が彼女の心を震わせた。日記に触れた瞬間、かすかに声が耳に響いた——「今日も雨だったね」と笑うチヨの声。一瞬のことだったが、ルカの心臓が跳ねた。影写りの巫女の力が、彼女の中で目覚めつつあるようだった。


「四月十日。今日も桜を撮りに行く。ルカを早起きさせるのは可哀想だけど、あの子の寝顔を見ていると目が覚めるまで待ちたくなる。でも、朝の光は逃したくない」


言葉を読み上げる彼女の声が震え、涙が頬を伝った。これはチヨの言葉、姉の思い。温かさと切なさが胸の内でぶつかり合う。遠く、時間の軋む音が強まり、部屋の空気が揺れた。


「フィルムがあと三本しかない。今度町に行ったとき、買い足さなきゃ。でも現像液の材料を考えると...予算が...」


ルカの脳裏に映像が浮かぶ——町の写真材料店で、フィルムを選ぶチヨの姿。「これは光の感度がいいから、朝霧の撮影に向いてるよ」と教える姉の声。それは確かに記憶だった。忘れていたはずなのに、日記が鍵となって開かれた扉。


クロが障子の外から身を乗り出し、部屋の中を見つめていた。その目には複雑な感情が宿っていた。


「彼女の光が...俺を縛る」


クロは小さく呟いた。その声に混ざる痛みに、ルカは思わず振り返った。


「どういう意味?」


クロは黙り込んだ。面の下の表情は見えないが、その姿勢からは言葉にならない葛藤が伝わってきた。青緑の霧が彼の周りで渦を巻き、影が大きく歪んで床に映った。九つの尾が一瞬だけ伸びては消えるような印象を与えた。

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