第2話 記憶を刻む時計
「なんでだろう…」
不意に両親の葬送曲が脳裏に響き、彼女は目を強く閉じた。姉の声—『ルカ、忘れないで』—が耳の奥で響き、彼女の指が震えた。「感じると、痛いから…」感情を抑える癖が、孤独な夜を耐える術だった。写祓の度に記憶の欠片が削れていく恐怖から自分を守る、唯一の方法。
懐中時計の針は七時四十二分で止まったまま。ルカは深呼吸し、時計を引き出しに戻した。
「在庫、ちゃんとあるね。忙しくなるかな、チクワ?」
窓際に座る黒と白のハチワレ猫、チクワが首を傾げる。白い毛が月光で淡く光る。猫の金色の瞳が一瞬、不自然に青く輝いた。その瞳は魂の光を映し、写し世の揺らぎを感知する能力を持っていた。夢写師の家系に代々仕えてきた守り手のような存在。
「ねえ、お前、いつも何か知ってる顔してるよね。霧の向こう、教えてよ?」
チクワは答えず、鏡を一瞥。一瞬、影が揺れた気がした。猫は低く唸り、壁の一点——二階への階段の先を見つめた。ルカには見えない何かを見ているようだった。チクワの金色の瞳が月光に一瞬青く輝き、そのまま視線を階段に固定した。
「二階?何かあるの?」
ルカは階段を見上げた。使っていない部屋があるはずだ。なぜか足が向かない場所。記憶が欠けている感覚。「変ね…」彼女は頭を振り、厨房へ向かった。
「動かないと、頭がぐるぐるする。動こう、ね」
彼女の声は小さく、霧に溶ける。遠くから時間の軋むような音が微かに届き、彼女の耳を震わせた。それは写し世と現世が交差する時、発せられる特有の音色だった。普通の人間には聞こえないが、夢写師の血を引くルカには、その余韻が痛いほど響く。
鍋で唐辛子の煮込みが煮える。赤い湯気が鼻を刺す。
「うわ、辛っ! でも、これで頭が静かになるんだよね。甘いもの? うーん、なんか気持ちがふわっとしちゃいそう」
ルカはスプーンを握り、一口。
「…悪くないけど、もうちょい辛くてもいいかな?」
食事を終え、彼女は二階の自室へ向かう。階段を上がりながら、廊下の突き当たりにある閉ざされた部屋の前で足が止まる。手が勝手にドアノブに伸びかけ、彼女は慌てて引っ込めた。
「なんで…」
チクワが彼女の足元に現れ、閉ざされた部屋の前で座り込んだ。まるで待っているかのように。その金色の瞳は月の光を受けて鋭く輝き、ドアの隙間から漏れる見えない何かを追っているようだった。