第18話 狐神とチヨの犠牲
「七年前、この神社で起きた封印の儀式。あの日、お前の姉は狐神を封じ込めるため、自らを犠牲にした」
老婆の言葉に合わせ、断片的な記憶がルカの中で蠢き始める。月明かりの下の儀式。鏡に囲まれた円形の空間。姉らしき少女の叫び声。そして、自分自身の泣き声。遠く、時間の軋む音が彼女の記憶に漂う。
「七年前、夏至の夜」静江の目が遠くを見つめる。「狐神が暴走を始めた。村人たちの記憶が奪われ、写し世と現世の境界が崩れ始めた。当時の神主は対処できず、夢写師の家系である橋爪家に助けを求めた」
ルカの喉が渇く。体の震えは収まらず、記憶と現実の狭間で意識が揺れていた。
「チヨは22歳だった。若すぎた」静江の声は悔恨に満ちていた。「だが、彼女には特殊な才能があった。写し世の存在と直接対話する力だ」
「それで姉は…自ら狐神と…」
「そう、対峙した」静江は頷いた。「チヨは言った。『私には話せる。だから私が行く』と」
顔を上げた老婆の目には、涙が光っていた。
「儀式は成功した。だが代償は大きかった。チヨの魂は狐神と共に封じられ、その存在は人々の記憶から消えていった。親族である橋爪家の記憶が最も強く影響を受けた。お前ですら、姉の存在を忘れてしまった」
「守るために…記憶を消した?」ルカの声は震えていた。「でも、それは残酷すぎます!」
「封印の儀式では、チヨ自身が望んだことだ」静江は静かに答えた。「お前を守るために」
「姉の最後の言葉は…?」
「『わたしのことを、ずっと覚えていてね』」
その言葉に、ルカの胸が千切れそうになった。思い出せない記憶が、心を引き裂く。村の古い井戸の前でチヨと手をつなぐ自分。雨の日に傘を差し出す姉の笑顔。そして、写し世の境界で互いを見つめ合う二人の姿。
「同時に、狐神の力は九つの欠片となって散った」静江は静江は天井を見上げ、深い息を吐いた。青い光を帯びた影が壁に揺らめく。「各欠片は強力な願いの力を持つが、使用者の記憶を奪うという代償を伴う。欠片の中には特に強いものが5つあり、それらは封印を開く鍵となる。残りの4つは封印を支える柱。これらが揃えば、チヨの封印にも変化が生まれるだろう」
「神の欠片…」ルカは眉を寄せた。「クロの言っていたものですね」
「そう」静江は頷いた。「彼もまた、封印の過程で生まれた存在だ。狐神の力の一部が分離し、人の形をとったものと考えられる」
「では、クロとは何者なのですか?」
静江は一瞬、躊躇ったように見えた。窓の外で風が強まり、木々の揺れる音が室内に響いた。空気が冷たくなり、静江の傍に座る古い茶壺から湯気が立ちのぼる様子が変わった——湯気が凍ったように、動きが遅くなる。写し世の影響で時間が歪んでいた。
「彼は欠片を集め、封印を解こうとしている。だが、そうなれば…」
「姉は?」ルカの声は切迫していた。
「自由になるかもしれない。だが同時に、狐神も解放される。再び暴走すれば、今度は止められないかもしれない」
ルカは立ち上がった。頭がぐらつく。真実を知りたいと思ったが、これほどの重みは予想していなかった。心の奥で、姉を取り戻したいという強い願いが芽生え始めていた。
「わかりました。ありがとうございます」
帰ろうとするルカを、静江が呼び止めた。
「待ちなさい。これを」
老婆は小さな布袋を差し出した。中には朱色の印が押された古い札が入っている。
「影写りの札だ。写し世との境界が強まる場所でこれを使いなさい。姉の記憶を取り戻す助けになるだろう」
ルカは札を受け取った。感謝の言葉を言おうとしたが、喉が詰まる。
「もう一つ」静江の目が鋭くなった。「あの懐中時計、まだ持っているね?」
「はい」ルカは無意識に胸ポケットに手をやる。「いつも」
「あれは特別なものだ。チヨが最後に使った写祓の道具。針が示す時刻は、封印の瞬間を指している」
七時四十二分——ルカはその数字を反芻した。姉の最期の瞬間。その時計が微かに脈打つような感覚がする。まるで生きているかのように。
「記憶を取り戻すことは、写し世の境界を乱す。お前自身が危険にさらされるかもしれない」静江は静かに警告した。「写祓の代償は記憶の喪失。これはチヨも知っていたことだ。だが彼女は言った——『真実を知るために、記憶の一部を失っても構わない』とね」
「チヨ姉さんは…強かったんですね」
ルカの声に初めて「姉さん」という言葉が混じり、彼女自身もその違和感と自然さに戸惑った。
「行きなさい」静江は柔らかく背中を押した。「あの男が待っているだろう」




