第17話 感情の洪水
チヨ——その名前を聞いた瞬間、ルカの胸に何かが降り立った。温かく、懐かしく、同時に痛みを伴う感覚。外から霧が部屋に滲み入り、足元で渦を巻くようだった。
「いつも笑顔だった」静江は続けた。「お前と違って、感情をよく表に出す子だった。写し世の誰とでも話せる特別な力を持っていて、村人からも『笑顔の巫女さん』と慕われていた」
老婆は茶を一口すすり、ルカの反応を見守った。彼女の皺だらけの手は、ルカが想像していた以上に強く温かかった。
「チヨはね、あなたが熱を出したとき、三日三晩そばを離れなかった。手ぬぐいで額を拭きながら、お気に入りの物語を読み聞かせていたよ」静江は優しく微笑んだ。「『ルカの笑顔が、私の力になる』といつも言っていたね」
ルカの目から涙が溢れた。自分でも気づかなかった感情の洪水。感情の抑制が、彼女の魂の防衛であり、写祓の安全装置だった。だが今、その堤防が少しずつ崩れていく。それは危険であると同時に、彼女の魂が本来の姿を取り戻そうとしているようでもあった。
「でも、なぜ私は…」
「忘れているのか?」静江は首を振った。
「違う、忘れさせられたんだよ」
ルカは両手で頭を抱えた。室内に時間の軋む音が響き、過去の声々が壁に反響するように聞こえた。少女の笑い声、囁き、そして悲鳴。
「嘘です!そんなこと…」
声は上ずり、全身が震えていた。何かが壊れそうで、何かが溢れそうで、全ての感情を押さえつけなければ心が砕けるような気がした。
「記憶を失うのは、夢写師の宿命でもある」静江はゆっくりと言葉を選んだ。「お前も写祓のたびに少しずつ失っているはずだ。だが、姉の記憶は違う。あれは、特別な封印の結果だ」
「封印?」
静江は頷き、立ち上がって壁に掛けられた古い掛け軸を指差した。そこには巫女の姿が描かれている。手に鏡を持ち、月を見上げるその姿は、どこかルカに似ていた。
「まずは影写りの巫女のことから話さねばならない」
老婆の声が儀式めいた厳かさを帯びる。周囲の空気が重くなり、時間の流れが変わったように感じられた。部屋の隅に置かれた古い灯りが青く揺らめき、壁に映る影が歪む。現世と写し世の境界が、この瞬間、薄れていた。
「橋爪家は代々、影写りの巫女を務めてきた。かつて影向稲荷の創建時に、初代巫女が狐神と契約を結び、記憶を守る役目を負ったのだ。明治以前は鏡を使い、明治以降は写真技術を取り入れて『夢写師』となった。お前たちの役目は、写し世と現世の境界を守ること」
ルカは頷いた。それは両親から聞いていた話だ。しかし契約や初代の話は聞いたことがなかった。
「影向稲荷は記憶の狐神を祀る神社」静江は続けた。「その神の名は『クロミカゲノオオカミ』。記憶を司る九尾の狐神だ。数百年間は安定していたが、時代の変化と共に狐神の力は不安定になった。数世代ごとに、特に強い巫女が必要になる」
書き物机の上に静江は古い絵巻を広げた。そこには九尾の狐と対峙する巫女の姿が描かれていた。九つの尾は、それぞれ異なる色を持ち、巫女はそれらを鏡で封じようとしている。
「かつて狐神は人々の記憶を守護した。だが時に暴走し、人から記憶を奪うこともある。そんな時、影写りの巫女が現れる」
「狐神と姉は…?」
静江はため息をついた。外から風の音が聞こえ、紅葉が窓を叩く音が教えを受ける儀式に厳かさを加えた。




