第15話 影向稲荷への道
記憶に形があるとしたら、それは風に舞うフィルムのようだった。手に取れば、きっと破れてしまう。でも、目を逸らしたら、すべてが失われる。
影向稲荷への道は霧に埋もれていた。石段は苔むし、朱色の鳥居は痛んでいる。橋爪ルカは足を止め、呼吸を整えた。黒いコートの下で、心臓が早鐘を打っている。
「昔から来てたはずなのに…なんだか怖い」
ルカは小さく呟き、見上げた鳥居に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、霧が揺らめき、色彩が反転した—鳥居の朱色が青緑に、自分の黒いコートが白く見える。一瞬の現象に、彼女は息を飲んだ。写し世の法則が、この場所でも作用している。特に古い神社では、現世と写し世の境界が薄く、時に色彩や音が反転することがある。何世代もの祈りと信仰が、場所そのものに記憶を刻み込んでいる。
霧の中から参道が現れた。かつて何度となく歩いたはずの道が、今日はどこか別の世界へと続いているようだ。ルカは掌に汗を握り、自らの意志を確かめるように前に踏み出した。静けさの中に、かすかな金属音が混じる。時間の軋みとも、遠い記憶の反響とも言えない音が、空気を震わせていた。
石段を上り切ると、境内が広がる。朝の霧で参拝客はまばらだ。手水舎で手を清め、本殿へと向かう。鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼。これまで何百回と繰り返してきた動作なのに、今日は手が震える。
時計が七時四十二分を指す感覚—それは実在する記憶なのか、想像なのか。ルカは混乱していた。チヨの笑顔が頭をよぎり、胸が締め付けられた。
「橋爪さん、珍しいねぇ」
背後から声がした。振り返ると、神社の定例清掃をしていた年配の女性たちがいた。いつも写真館に立ち寄る常連だ。
「おはようございます。その…静江さんはいらっしゃいますか?」
女性たちは顔を見合わせた。
「静江ばあさんなら、奥の社務所にいるよ。体の具合が悪いの?」
「いえ、ちょっと…聞きたいことがあって」
ルカは曖昧に答え、社務所へと足を向けた。社務所は本殿の裏手、杉林に囲まれた小さな建物だ。ドアを叩くと、かすれた老婆の声が応えた。
「入りなさい」
室内は薄暗く、古い巻物や文書が積み上げられていた。年季の入った机の前に、銀色の髪を厳しく結い上げた老婆が座っている。静江は九十歳を超えているはずだが、背筋は真っ直ぐで、目には鋭い光が宿っていた。周囲の空気は不思議と静まり返り、外の世界の音が遮断されたように感じられた。