第14話 姉の記憶の示唆
「私が...誰?」
ルカは混乱しながらも、訪問者と向き合った。冷静を装っているが、全身の細胞が反応している。対峙すべき相手だと本能が告げている。昨夜の湿板に写り込んだ青緑の影と、目の前の男が重なって見えた。
男はゆっくりと狐の面を上げ、その下の顔の右半分を僅かに見せた。白い肌、鋭い輪郭。そして右目には奇妙な円形の紋様があり、それは時折青い光を放った。まるで湿板の硝酸銀の滴りのような輝き。霧の渦の中に、一瞬だけ九つの尾の影が映ったように見えた。
「クロと呼べ。お前の写真の中に、神の欠片がある。それを見せてもらいに来た」
冷静さを保とうとしたが、ルカの体は小さく震えていた。記憶の奥底で何かが揺れ動いている。見覚えのある声、見覚えのある紋様。断片的な記憶が、砕けた鏡のように浮かんでは消える。
「神の...欠片?」
「そうだ。お前の姉が封印したもの」
クロの言葉に、ルカは凍りついた。頭に鈍い痛みが走る。
「姉...? 私には姉なんていない」
彼女の声は微かに震えていたが、クロは意に介さない様子で続けた。その顔には確信があった。神の欠片という言葉が、湿板の表面に現れた青緑の影と重なる。欠片は全部で九つ。それらが集まれば、記憶の真実が明かされる。だが代償も大きい。
「思い出せ、橋爪ルカ。十年前、影向稲荷での儀式を。お前の姉が狐神を封印した夜を」
彼の言葉と共に、ルカの頭に鋭い痛みが走った。存在しないはずの記憶が、砕けた鏡のように断片的に浮かび上がる。
白い小袖に緋の袴。笑顔の巫女。「私がいるから大丈夫」という優しい声。満月の光。八つの鏡。そして七時四十二分を指す懐中時計。
見知らぬ巫女の笑顔がちらつき、それと同時に両親の葬送曲が脳裏に響く。これらは本物の記憶なのか、それとも妄想なのか。ルカの息が荒くなり、冷や汗が背中を伝う。まるで湿板の現像中のような頭痛が彼女を襲った。
「姉...橋爪チヨ。どうして忘れている?」クロの声には非難と共に、どこか痛切な悲しみが混じっていた。「写し世との均衡が揺らいでいる。放っておけば、お前の記憶だけでなく、この街全体が霧に飲み込まれる」
ルカは壁に手をついた。幻覚めいた映像が次々と脳裏を駆け巡る。笑顔の少女、鳥居の前での約束、写真館での楽しい日々、そして恐ろしい何かが雄叫びを上げる影。まるで写し世が一気に彼女の精神に流れ込むかのように。感情抑制の砦が、今にも崩れそうになる。
「今はその時ではない」
クロは冷静にルカの肩に触れた。その接触が、不思議と彼女を現実に引き戻す。
「まずは影向稲荷へ行け。静江に会うんだ。彼女ならお前に真実を教えてくれる」
ルカは震える呼吸を整えようと努めた。今まで知らなかった姉の存在。神の欠片。記憶の封印。謎は深まるばかりだ。しかし、この男——クロと名乗る存在の目には、彼女が信じるべき何かがあるように感じられた。紋様に宿る青い光が、懐中時計の七時四十二分と共鳴するような気がした。
「写し世から欠片が現れ始めている。お前は選択を迫られる」クロは静かに言った。「全ての記憶を取り戻すか、このまま忘れたままでいるか。だが急ぐべきだ。欠片は既に動き始めている」
ルカは窓の外を見た。霧が渦巻き、いつも以上に濃くなっていた。かすかに青みがかって見える霧。そして遠く、時間の軋むような音。写し世からの警告のようだった。
何かが始まろうとしていた。記憶と忘却の旅が。




