第12話 欠片の痕跡
その言葉と共に、少年の姿が消えた。水蒸気のように霧散し、写真の中に戻っていく。同時に、湿板に閃光が走り、河内家の写真が変化した。空白だった場所に、少年の姿がうっすらと浮かび上がる。笑顔の河内佐助が、家族の輪の中に戻っていた。写祓は成功した。現世での記憶は完全には戻らないかもしれないが、少なくとも写真には姿が残る。次第に家族の記憶も戻っていくだろう。
最後の閃光の中で、少年の涙が定着する瞬間、ルカの胸にも何かが共鳴した。彼の悲しみが、彼女自身の中の何かを呼び覚ましたかのように。黒い狐。記憶を操る存在。ルカの心に、微かな恐れが芽生えた。
「黒い狐...?」
ルカは眉を寄せ、湿板から視線を上げた。窓の向こうに、一瞬だけ何かの影が映ったような気がした。月光を受けて青く輝く、狐の姿。だが、目を瞬くとそれは消えていた。
胸の奥がざわめく。懐中時計がポケットの中で脈打っているような感覚。彼女は時計を取り出して見た。七時四十二分を指したまま—だが、針がわずかに振動しているように見えた。まるで警告を送るかのように。
ルカは急いで湿板を現像液に浸した。ピロガロール酸の溶液が佐助の姿を浮かび上がらせる。現像過程では、魂の叫びが増幅され、ルカの頭に鋭い痛みが走った。これは湿板コロジオンの副作用—魂の感情が強く現れすぎると、写し手自身が影響を受けるのだ。強い魂の写祓は、少しずつ写真師の記憶を削り取る。代償だ。
「頭が...」
彼女は額を押さえながらも、手順を止めない。定着液(チオ硫酸ナトリウム)で湿板を洗い、魂を鎮める。最後にワニスを塗り、封印を強化する。
完成した湿板には、佐助の姿が鮮明に定着していた。しかし背後に、何か別の影が見えるような...。青緑色の光を放つ、面のような形。湿板に湿った硝酸銀が、見えないはずのものを映し出していた。
「これは...」
彼女が言葉を紡ごうとした瞬間、月見窓から冷たい風が吹き込み、写し世の気配が薄れていった。写祓は終わった。しかし完璧ではなかった。写真には佐助の姿が戻ったが、窓の外に見えた狐の影、その正体は謎のままだ。少年の言葉を思い出す。「黒い狐」——記憶を操る存在。
チクワは窓辺から跳び下り、ルカの足元に寄り添った。猫の体は暖かく、その存在が現実への錨となる。猫は湿板の表面をそっと爪でなぞり、小さく鳴いた。魂の浄化を確認する仕草だった。
「ありがとう、チクワ」
彼女は猫の頭を撫でながら、疲れた体を椅子に沈めた。今日の写祓は、いつもより深く彼女の心を揺さぶっていた。湿板コロジオンの不安定性が、彼女の感情抑制を乱し、頭痛と共に知らない記憶のフラッシュバックを呼び起こしていた。黒い狐。写し世の欠片。七時四十二分。幼い頃の記憶が、霧に包まれて揺らめいていた。