第102話 夕霧村、記憶が眠る盆地
写真は自分自身を写すこともある。その時、レンズの向こうにいるのは被写体でもあり、写す者でもある。そして、それこそが真の自画像。光と影の狭間に浮かぶ姿こそ、我々の本質。父はかつて「自分自身を知るための最も正直な方法は、自分の撮った写真を見ることだ」と語っていた。
霧梁県の東部、山と山の間に広がる小さな盆地。かつてそこに存在していたはずの村を探して、一行は三日間歩き続けていた。朝霧の中から木々のざわめきが届き、父が好んだ鳥の声が遠くから響いてくる。鼻腔をくすぐる湿った土の匂いが、記憶を喚起するかのように漂ってくる。
「古い地図では、ここに『夕霧村』という集落があったはずなんです」
風見蓮が古びた地図を広げ、指で位置を示した。彼の眼鏡が朝日に反射して光る。蓮は祖父から受け継いだ記録を頼りに、行く先を定めていた。父が地図を広げる仕草に似た、几帳面で丁寧な手つきだ。さらに彼は、一行が休むたびに、気象や環境のデータを丹念に記録していた。
「気温、湿度、風向き…すべて祖父の記録と一致します。彼は『記憶の消失は、自然現象と密接に関連する』と記していました」
蓮はノートを開きながら、「祖父は科学で測ろうとしたが、僕はその向こう側を感じている」と呟いた。「祖父の死後、家族の記憶の謎に取り憑かれましたが、今ならその意味が分かります」と彼は静かに付け加えた。
「あなたのおじいさまは、この村に来たことがあるのね」ルカは蓮を見つめた。彼のオーラには青い糸が織り込まれ、祖父への思いと科学への憧れを表していた。
「はい。祖父の最後の記録には、夕霧村での奇妙な発見について書かれています」蓮は眼鏡を直した。「祖父は記憶の消失現象を追って、この村にたどり着きました。彼は村の井戸で異常な測定値を検出し、その後…帰らぬ人となったのです」
「彼は記憶の波紋に飲み込まれたのかもしれないね」静江がお茶を啜りながら言った。彼女の紫色のオーラには、何か秘密を知っているような深みがあった。
「でも、今は何もないように見えますね」
前方に広がるのは荒れた野原だけ。集落があった形跡すら見当たらない。遠くにはわずかに石垣の残骸が見え、かつて人が住んでいた痕跡が残るのみだ。
蓮は小さな測定器を取り出し、周囲の空気を調べた。
「不思議です。この場所だけ、霧の密度が異常に高いんです。目には見えませんが、計測上は濃い霧に包まれているような…」
「写し世の力で隠されているのかもしれない」
ルカは金色に変わった瞳で風景を見渡した。彼女の目には、普通の人には見えないものが見えるようになっていた。周囲の景色に漂う微かな色、記憶のオーラだ。そして、耳を澄ませば、遠くからチヨの囁き声—「見つけて」—が風に乗って届いてくるようだった。
その瞬間、ルカは胸に鋭い痛みを感じた。記憶のオーラを読み取る新たな能力を使うたびに、彼女自身の記憶が揺らぐような感覚があった。「巫女の力を使うことの代償」とクロミカゲが言った言葉が脳裏によぎる。しかし彼女は、一時的な痛みに目を閉じ、集中を続けた。
「何か…感じるわ」
彼女は前方を指差した。盆地の中央部分に、薄い霧のようなものが漂っている。通常の霧ではなく、記憶の残滓。それは青から灰色、そして白へと色を変えながら、ゆっくりと渦を巻いていた。その渦の中から、母が夏祭りで口ずさんでいた古い歌の一節が、かすかに聞こえてくる。肌に触れる空気は冷たく、しかし不思議な懐かしさを伴う温もりを感じさせた。
「そこね」
ルカはチクワを抱えたまま、霧に向かって歩き始めた。猫は警戒するように耳を立て、低く唸った。その白黒の毛並みが一瞬青く光ったように見えた。金色の瞳が輝き、魂写機の写真を守るように前足を置いた。
「気をつけて」
クロミカゲの声が風のように彼女の耳に届く。蓮や静江には聞こえない声だ。クロミカゲは写し世と現世の間を自由に行き来できるようになり、時に姿を現し、時に風となって彼らを見守っていた。彼の影が地面に映り、九つの尾を持つ狐の姿になって揺らめいた。
「チヨの記憶がわたしを導く…」クロミカゲの声が続いた。「この村には、わたしたちの過去も埋まっているかもしれない。この井戸は影向稲荷の奥宮と繋がる時の狭間の結節点だ。写し世の記憶が時間軸を超えて集まる場所だ。チヨの封印が夕霧村の記憶をここに閉じ込め、秘匿の霧で現世から隔離したのだ。」
「写し世の強い場所でしか実体化できないの?」ルカが尋ねた。
「ああ。村にチヨの封印の痕跡がある。それが私を引き寄せる」
ルカは立ち止まり、振り返った。チヨの記憶が村に繋がっていることを直感的に理解した。
「姉さんの…記憶?」
「ああ。わたしの中のチヨの記憶が、この場所に反応している。夕霧村は、封印と何らかの関係があるのかもしれない」
霧に近づくにつれ、不思議な感覚が一行を包み込んだ。時間がゆっくりと流れ、音が遠くなり、色彩が薄れていく。それは写し世との境界に入りつつある証拠だった。耳の奥で時間の軋む音が強まり、遠くから誰かの笑い声と泣き声が重なって聞こえてくる。記憶の断片が混濁する感覚に、ルカは一瞬身震いした。皮膚に触れる空気は生温かく、まるで誰かの吐息のようだった。
蓮はノートに何かを書き込みながら、興奮した様子で呟いた。
「祖父が記録した通りだ…『記憶の波動』が空間そのものを歪めている。これは科学では説明できない現象です!」




