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第六話 霧の濃い森

駅の扉を閉めても、あの"気配"の余韻は肌に残っていた。ホオズキは何事もなかったかのように伸びをし、リムは相変わらず感情の読めない目でこちらを見ている。


「……ちょっと外、歩いてくる」


そう言うと、ホオズキは「へぇ」と面白そうに目を細めた。


「外って、どこ?」


「駅の周りの森。昨日から気になってた」


「ふーん……死なないようにね」


軽く手を振りながら、彼女は駅舎の奥へと消えていく。リムはしばらくこちらを見ていたが、やがて「気をつけてください」とだけ言い、机へと向き直った。


私は駅舎を出る。——外は相変わらず霧が濃い。森の木々が霞んで見え、まるで踏み入ることを拒むかのようだった。それでも、足を進める。


カサ……


枯葉が擦れる音がする。静かすぎる。


(何があるんだろうな)


何かがいるのかもしれない。何もいないのかもしれない。どちらにせよ、確かめなければ気が済まなかった。——そうして森の奥へ進むうち、違和感に気がついた。


……音が、ない?


風のざわめきも、枝葉の揺れる音もない。ただ、自分の足音だけが響いている。


(……嫌な感じだ)


そう思った瞬間——


ギィィ……


心臓が跳ねた。今の音は、どこから?振り返る。何も、いない。だが、確かに聞こえた。何かが軋む音が。足を速めるたびに、森のどこかでその音が響く。次第に近付いてくる。その音が、すぐそばにあると錯覚するほど近付いた瞬間、冷たい空気が全身を包み込んだ。振り返ると、霧が深く、足元の枯葉が何もかも飲み込んでいくように思える。


——音が、止んだ。


胸の奥に突き刺さるような不安が湧き上がる。私は走り出していた。だが、足が止まる。それは——突然現れた異様な光景のせいだった。大きな木が立っている。他の木々よりも異様に太く、幹は異様に明るく、まるで真昼の陽光を浴びているようだった。霧の中で、その木だけが浮かび上がって見える。思わず目を奪われた。近づくにつれて、何かの違和感が膨れ上がっていく。木の枝に目を向けた瞬間——私は息を呑んだ。そこには、人間の形をしたものがぶら下がっていた。身体をツタに絡め取られ、首を吊るように宙に浮いている。ツタはまるで生きているように動き、その足元には無数の根が広がっていた。


ギィ…ギィ…


かすかに、声が聞こえた。


「……たすけて……」


耳に届いた瞬間、背筋が凍る。その声が、どこかで聞いたことのあるものに感じられた。


ギィ…ギィ…


思わず耳を塞ぐ。輪郭のない影のようなものが、霧の中に揺らめいていた。——それが何かの警告のように迫る。目の前にそびえる大木。そして、枝にぶら下がる、人間だったはずの何か。どこかで見たことがある気がしてならなかった。それが誰なのか、すぐには分からなかった。しかし、その瞬間、木が唸るような音を立てた。


「……誰?」


声が漏れた。その言葉に反応するように、何かがゆっくりと動く。枝の上で蠢く「何か」の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。その顔は、その口は、不気味な弧を描いていた。それが何なのか、分からない。けれど、その目が。その瞳が、私を嗤っている。その瞬間、胸の奥が重くなった。


「おいで」


静かに、耳の奥へ響く声。木が振動する。ツタが動き出す。それは、かつての友人の声に似ている気がした。


「……いや」


後ずさろうとする。だが、足が動かない。木の根が、足元から這い寄ってくる。ツタが、こちらへと伸びる。冷気が肌を刺し、まるで首筋へと絡みつこうとしているようだった。逃げなければ。


——その時。


「来るな」


低く、冷たい声。振り返ると、ホオズキが立っていた。いつの間にか、私の背後にいた。彼女は森の奥を見据え、静かに言う。


「ここはやめた方がいいよ」


「ホオズキ……」


その瞳は冷たく、それでいて警告のような色を帯びていた。言葉を失う私をよそに、彼女はゆっくりと歩み出る。その瞬間、木が激しく揺れた。


「こいつに近づくな」


ホオズキが冷たい声で告げる。木が怒ったように震え、根がさらに蠢く。ツタが伸びる。私は息を切らしながら駆け出した。背後で、木の枝が大きく揺れ、ツタが空を裂く音がする。


「急いで。」


ホオズキの声が、私の背を押す。足元の枯葉が湿った土に変わり、滑りそうになりながらも走る。背後で木が軋み、何かがうごめく音がする。霧の中を必死に走り抜け、ようやく森の入り口が見えた時ーー


音が、止んだ。


ツタの這う音も、木の唸りも、すべてがぴたりと消えた。まるで最初から何もなかったかのように、静寂だけが広がっている。私は荒い息を整えながら、後ろを振り返る。そこには、霧に包まれた森が広がるだけだった。


——あの異様な木の姿は、見えない。


「……消えた?」


「いや、元に戻っただけ」


ホオズキは森の奥を睨みながら答えた。


「アイツは、元々この森にいる精霊のようなもの。姿を現すのは、滅多にないけど……気まぐれに人を食う」


彼女の言葉に、背筋が凍る。


「人を……?」


「そう。あの木に捕まったら終わり」


ホオズキは霧の奥を見据えながら続ける。


「だから、森の奥には入らないほうがいいって言ったのに」


「……ごめん」


自分でも分かっていた。好奇心で足を踏み入れた結果、取り返しのつかないところまで行くところだった。


「まあ、無事だったからいいけどね」


ホオズキは肩をすくめ、くるりと背を向けた。


「戻ろう。リムが心配する」


私は黙って頷いた。森の中は相変わらず静かだったが、背後に何かの視線を感じる気がしてならなかった。そのまま、駅舎へと歩き出す。


足元の枯葉が、カサリと音を立てた。


——まるで、何かがそこにいたことを示すように。


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