第五話 聞こえないふり
駅舎の空気は、どこか重たかった。昨日からずっと感じていた違和感は、消えないままだった。リムは静かに座っている。私は彼の向かいに腰を下ろし、食器を片付けながら口を開いた。
「なあ、昨日の夜……お前、いつ寝た?」
「……分かりません」
「分からないって、起きてたのか?」
リムは少し考える素振りを見せる。そして、ぽつりと答えた。
「気づいたら朝でした」
「……」
何だそれは。寝た記憶がない?
「お前さ、夢とか見る?」
「夢……?」
リムは少し首を傾げる。
「見たことはあるかもしれません。でも、覚えていません」
「……そっか」
私は少し考え込んだ。昨夜のことを思い出す。ホオズキは「まだ何も見てないなら、それでいい」と言った。
(でも、"聞こえた"ら、もう遅い……)
だったら、リムはどうなんだ? 彼は"何か"を見ているのか? 聞いているのか?
「なあ、昨日の夜、お前は"何も聞かなかった"のか?」
「……」
リムは、一瞬だけ目を伏せた。
「……あなたが聞いた音は、どんな音でしたか?」
「どんなって……」
あの音が、耳の奥で蘇る。
コン、コン。
静かで、けれど確かに響いた音。
「扉を叩く音だ。二回だけ、はっきり聞こえた」
リムは、それを聞くとゆっくりと頷いた。
「……そうですか」
「……お前は?」
リムは少しの間、黙っていた。そして、静かに答える。
「私は、音ではなく"気配"を感じました」
「……気配?」
「ええ」
「それって……」
何となく、続きを聞くのが怖かった。
「"そこにいた"ということです」
リムは淡々と答えた。
「……何が?」
「分かりません」
「でも、"いた"のか?」
「はい」
私は息を呑んだ。
(やっぱり、昨夜のあれは"気のせい"なんかじゃなかったんだ……)
「……ねえ、リム」
私は慎重に言葉を選ぶ。
「その"気配"ってさ……今も感じる?」
リムは、ふっと窓の方へ視線をやった。
「……分かりません」
「分からないって……」
「"いなくなった"のかもしれません」
私は思わず、喉を鳴らす。
(じゃあ、"どこかへ行った"ってことか?)
それとも——
まだ、いる?
「……」
妙な寒気が背筋を走る。
リムは、そんな私の様子を見ながら静かに言った。
「気にしすぎると、引きずり込まれますよ」
「……!」
リムの声は、いつもと変わらないはずなのに、妙に現実味があった。
「ホオズキさんが言ったでしょう? "何も見ていないなら、それでいい"と」
「……」
「だから、忘れる方がいいですよ」
そう言って、リムは静かに目を閉じた。私は、息を整えながら窓の外を見た。霧の向こう、線路が続いている。
(……"何か"は、本当にいなくなったのか?)
それとも、ただ"まだ見えていない"だけなのか。駅舎の入り口。普段は何の変哲もない、ただの扉。
コン、コン。
再び響く、あの音。私は息を詰めた。
「……昨日と、同じ音だ」
リムもまた、静かに扉を見つめている。
「開けますか?」
その問いに、思わず首を振る。
「いや……やめた方がいい気がする」
「そうですね」
リムはそう言って、ゆっくりと扉から視線を外した。けれど、何かが気になる。
(扉の向こうには、何がいる?)
「ホオズキは……」
そう言いかけたところで、突然——
「おーい!」
後ろから、間延びした声がした。
「うわっ!?」
驚いて振り向くと、ホオズキが霧の中から現れた。
「何してんの?」
「……お前こそ、何してんだよ!」
「んー?」
ホオズキは軽く首をかしげ、私の後ろ——つまり駅舎の扉を見た。
「……まだ、いるみたいだね」
「……お前、何か知ってるんだろ?」
ホオズキはふっと口元を歪めた。
「さあ?」
「……お前さ、」
「ねえ、それよりさ」
ホオズキは私の言葉を遮るように、ぽんと肩を叩いた。
「開けてみれば?」
「は?」
「気になるんでしょ?」
「……いや、だから、それが危ないかもしれないって話を——」
「何もいなかったら、それでいいじゃん」
「……」
確かに、何もいなければ、それで終わる。けれど。
(何か"いたら"?)
「……どうする?」
リムが静かに尋ねる。私は、扉を見つめた。開けるべきか、開けないべきか。答えは——。
コン、コン。
再び響く音が、その決断を急かしているようだった。
「……開ける」
気づけば、そう口にしていた。ホオズキが面白そうに目を細める。リムは何も言わず、ただ静かにこちらを見つめていた。扉の前に立つ。手を伸ばし、深呼吸する。
(何もいない。ただの空間だ)
そう自分に言い聞かせる。けれど、手のひらにじんわりと汗が滲んでいるのがわかった。
「……いくぞ」
ゆっくりと、扉の取っ手を回す。
ギィ……
湿った蝶番が軋む音が響いた。少しずつ開かれる隙間。霧がそこへ流れ込む。私は息を詰めた。
(……何も、いない?)
霧の向こうに続く線路が見える。誰の姿もない。ただ、しんと静まり返っている。
「……ほら、何もないじゃん」
ホオズキが肩をすくめる。
「……そう、だな」
拍子抜けしたような気持ちで、私は扉から手を離す。すると——
コン、コン。
「……っ!」
音が、すぐそばで鳴った。思わず振り向く。しかし、そこには何もない。
「今の……どこから?」
「さあ?」
ホオズキは軽く首を傾げた。リムが小さく息を吐く。
「もう閉めた方がいいかもしれません」
私は頷き、扉を閉めようとした。——その時。風もないのに、霧がざわめいた。ざらり、と背筋に何かが這い上がる感覚。
「……っ」
私は咄嗟に後ずさった。霧の中、ぼんやりと"何か"がいる。はっきりとは見えない。けれど、そこに"在る"という確信だけが、ぞわりと肌を撫でる。ホオズキがぽつりと呟いた。
「……あーあ。気づいちゃったね」
「な、何が……」
ホオズキは私の背をぽんと押す。
「ほら、閉めなよ。今のうちに」
言われるがままに、私は勢いよく扉を閉めた。
バタン!
静寂が訪れる。ホオズキが軽く息をついた。
「……ま、悪いことが起きなきゃいいけどね」
そう言いながら、彼女はふっと笑った。
「——せいぜい、"聞かないふり"を続けなよ?」
私はその言葉の意味を、まだ理解できなかった。