第四話 聞こえたのなら
ホオズキが去った後も、私はしばらく扉の前に立ち尽くしていた。彼女の言葉が引っかかる。
「何か変なもの、見なかった?」
見ていない、と答えた。実際に何も見ていない。だけどーー
「……"聞いた" なら?」
思わず口をついて出た言葉に、部屋の静寂が重くのしかかる。
コン、コン。
扉を叩く音。あれは確かに聞こえた。けれど、ホオズキが現れた時には、もう音はしていなかった。まるで彼女が現れた瞬間、それは消えたように――
「……気のせい、か?」
そう思おうとしたが、彼は扉が叩かれた時、確かに言った。
「開けないでください」
あれは、ホオズキに向けた言葉だったのか?それとも、ホオズキが来る前に何かがそこにいた……?
「……」
リムを見ると、彼は机に向かって座り直していた。静かに、規則正しく呼吸している。
「リム」
呼びかけても、彼は答えない。まるで寝ているように、微動だにしない。さっきまで起きていたはずなのに?違和感が喉元まで込み上げてくる。だが、これ以上何かを考えるのはやめた。
「……もう寝よう」
そう言い聞かせ、私はベッドに潜り込む。瞼を閉じると、暗闇の中にホオズキの黒い瞳が浮かんだ。何かを知っている。彼女は確実に、何かを知っている。だけど、それを教えるつもりはない。そういう目をしていた。
___
目が覚めると、外はもう朝だった。薄暗い空には、ぼんやりとした白い光が滲んでいる。
「……リム?」
机の方を見ると、彼はまだそこにいた。昨夜と同じ姿勢のまま、まるで時間が止まっていたかのように。
(……本当に、寝てるのか?)
そう思いながら、私はベッドから起き上がる。
「おはよう」
そう声をかけると、ようやくリムがゆっくりと顔を上げた。
「……おはようございます」
相変わらず感情の読めない声。でも、その目はどこかぼんやりしている。
「寝てたの?」
「……さあ」
「さあって……」
やっぱり、昨夜のことを聞いても無駄な気がする。
「朝ごはん、どうする?」
「……好きにしてください」
「……そっか」
まあ、食べるものがあるかどうかも分からないんだけど。
「ちょっと外に出てくる」
そう言って私は部屋を出た。
___
駅舎の廊下は、朝の薄明かりに包まれている。夜の静寂とは違う、わずかに生温かい空気。足音を響かせながら、私はゆっくりと歩いた。
「……ん?」
廊下の突き当たり、窓のそばに何かがある。黒い、細長いもの。
(……髪?)
近づいてみると、それはやはり長い黒髪だった。窓枠に寄りかかるようにして、誰かが立っている。
「ホオズキ?」
そう声をかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。
「……おはよ」
いつもの気だるげな笑み。だけど、その瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「どうしたの、こんなとこで?」
「んー……朝の空気でも吸おうと思ってさ」
「そっか」
私も窓のそばに立ち、外を見た。霧がかった景色。どこまでも続く線路。駅舎の周りに広がる木々。
「……夜、何かあった?」
不意にホオズキが聞いてきた。
「いや……別に」
「そう」
「ただ……」
言いかけて、迷った。でも、やっぱり気になる。
「ホオズキ、昨日さ……扉を叩いたの、お前?」
ホオズキは、一瞬だけ目を細めた。
「……何それ」
「昨日の夜、駅員室の扉を叩く音がしたんだ。で、開けたらお前がいた」
「へぇ」
ホオズキは窓の外に目を向けたまま、小さく息をつく。
「私、扉なんて叩いてないよ?」
「……え?」
「だって、私は"最初から開いてた扉"の向こうに立ってただけだし」
喉が詰まる。
「何言って……」
「だから、もしあんたが"誰かのノック"を聞いたなら――」
ホオズキはふっと口元に笑みを浮かべる。
「それ、私じゃないよ」
心臓が跳ねた。
「……じゃあ、誰が?」
「さあね」
ホオズキは軽く伸びをしながら、窓枠から離れた。
「ま、そういうこともあるんじゃない?」
「……っ」
「ねえ、」
不意に、ホオズキが私の肩をぽんと叩く。
「まだ"何も見てない"なら、それでいいんじゃない?」
真っ黒な瞳が、じっと私を見つめる。
「でもね、」
ホオズキは微笑む。
「"聞こえた"なら、もう遅いかもね」
私は何も言えなかった。ホオズキはそのまま、踵を返して歩き出す。
「じゃ、朝ごはん探しに行こっか」
彼女の背中を見ながら、私はただ、指先の冷たさを感じていた。
コン、コン。
昨夜の音が、耳の奥で蘇る。それは、ただの夢だったのか。それとも、"ここにいるはずのない誰か"が、本当にそこにいたのか。ホオズキと別れた後も、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。胸の奥に残る違和感が、ざらりと引っかかっている。
(……最初から扉が開いていた?)
あの時、私は確かにノックの音を聞いた。目を覚ました時には、扉は閉まっていたはずだ。それを開けたのは、間違いなく自分の手。でも、ホオズキは「最初から開いていた」と言った。
(じゃあ……私が聞いたあの音は?)
あれは夢じゃない。確かに、あの場に響いていた音だ。なら、ホオズキが来る前に叩いていたのは、一体……?
「……考えても仕方ないか」
そう自分に言い聞かせ、足を動かす。ひとまず、朝ごはんを探すのが先だ。
___
駅舎の奥にある倉庫を開けると、古びた棚の上にいくつかの缶詰が置かれていた。埃をかぶっているが、中身は大丈夫かもしれない。
「これ、食べられるかな……?」
手に取ってみると、後ろからふっと声がした。
「缶詰なら、まだ大丈夫だと思いますよ」
「……!」
驚いて振り向くと、リムが静かに立っていた。
「お前、いつの間に……」
「ここに来た時からいました」
さらりと言うが、私が倉庫に入った時には気配などなかったはずだ。まるで、いつの間にか現れたように。
「……驚かせるなよ」
「驚かせるつもりはありませんでした。すみません」
相変わらず無表情のまま、リムは私の手元の缶詰に視線を落とす。
「それは、多分大丈夫です。去年まではまだ食べられましたから」
「去年……?」
「はい」
その言葉に、私は違和感を覚えた。
(去年?ここに、去年なんてあったのか?)
この駅舎に来てから、時間の感覚が曖昧になっている。何日が過ぎたのかも分からないし、そもそも「去年」という概念が正しく通じるのかも分からない。
「……とりあえず、食べてみるか」
蓋を開けると、意外にも中身はまともだった。匂いも問題ない。
「よかった……」
安心していると、リムがぽつりと呟く。
「昨日の夜、何かありましたか?」
その問いに、私は言葉を詰まらせた。
「……なんで?」
「朝、あなたの顔が少し疲れているように見えました」
「……」
私はリムを見つめた。彼は静かにこちらを見返している。彼の瞳は相変わらず髪に覆い隠されて見えないままだった。
「……別に」
そう答えながら、スプーンを口に運ぶ。
(昨日のことを話すべきか?)
ホオズキの言葉が蘇る。
——「まだ"何も見てない"なら、それでいいんじゃない?」
もしかしたら、話してはいけないことなのかもしれない。そんな気がした。リムはそれ以上問い詰めることはなかった。ただ、ゆっくりと席につき、私と同じように缶詰の食事をとる。静かな朝食。けれど、私の頭の中では、昨夜の"音"がまだ響いていた。
___
朝食を終えた後、私は駅舎の外に出てみることにした。朝霧が立ち込める中、線路が遠くまで続いている。
「……どこまで行けるんだろうな」
歩いてみようかとも思ったが、何となく踏み出すのをためらった。この線路を進んだ先に、何があるのか分からないから。ふと、視線を感じた。
(……誰か、いる?)
後ろを振り返る。しかし、そこには誰もいない。ただ、駅舎の窓がこちらを映しているだけだった。
(気のせい……?)
そう思いながら、もう一度線路に目を向けた。その時——
コン、コン。
「……っ!」
一瞬、心臓が跳ねた。今の音は、確かに聞こえた。けれど、扉を叩く音ではない。どこか、もっと遠くで響いたような……。
「……何だ?」
耳を澄ませても、それ以上の音はしなかった。
(……やっぱり、気のせい……なのか?)
深く息を吐き、私は駅舎へと戻る。