第三話 夜の足音
「それを知るのも、ここで過ごす理由の一つかもしれません」
リムの言葉が夜の静寂に溶ける。遠くで風が鳴り、駅舎のどこかが軋んだ。まるでこの建物自体が、眠りながら呼吸しているかのようだった。
(……ここで過ごす理由、か)
その意味はまだ分からない。ただ、この世界に来て以来、分からないことばかりだった。沈黙の中、私はリムを見た。彼はすでにこちらを見ていなかった。指先で机の上の何かを転がしながら、ゆっくりと呼吸を繰り返している。まるで私の存在など気にも留めていないかのようだった。
「……あんたは、ここでどれくらい暮らしてるんだ?」
何気なく問いかけると、リムは一瞬だけ動きを止めた。
「……覚えていません」
それだけを言い、また静かに指を動かし始める。
「覚えてない?」
「はい」
彼の答えはいつもそっけない。それが彼の性格なのか、それとも何かを隠しているのか、判断がつかなかった。
「じゃあさ」
「何ですか」
「ホオズキやヤクは、どれくらいここにいるんだ?」
「ホオズキさんは……ずっと前からです。ヤクさんは、私より後に来ました」
「なるほど……」
結局、時間の流れはよく分からないままだった。ここでは、何年も前のことが昨日のように思えたり、昨日の出来事が何年も昔のことのように感じられるのかもしれない。考えすぎても仕方がない。とりあえず今日はもう休もう。
「……寝るわ」
ベッドに体を沈め、ゆっくりと目を閉じる。マットレスは少し固いが、思ったより悪くない。
「おやすみ」
一応そう言ってみると、リムは少し間を置いてから、小さく呟いた。
「……おやすみなさい」
それが、彼からの最初の優しさのように思えた。
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どれくらい眠っていただろう。ふと、耳の奥で何かが聞こえた。
――コン、コン。
小さく、何かを叩く音。夢かと思ったが、確かに現実の音だった。
「……リム?」
寝ぼけた声で呼びかけるが、返事はない。暗闇に目を凝らすと、リムは机に向かったまま、ピクリとも動いていなかった。まるで時間が止まったかのように、静かに。
(……気のせいか?)
そう思い、再び目を閉じようとした、その時。
――コン、コン。
今度は、もっとはっきりと聞こえた。それは、扉を叩く音だった。駅員室の扉。こんな夜中に、誰かが来るはずがない。
「……リム」
恐る恐る、もう一度彼の名を呼ぶ。すると、リムはゆっくりと顔を上げた。そして、ぽつりと呟く。
「開けないでください」
低く、静かな声だった。
「絶対に、開けないでください」
リムは椅子から立ち上がると、扉の前にゆっくりと歩み寄った。
コン、コン。
扉を叩く音は、まだ続いている。私の背筋が、ひやりと冷えた。扉がわずかに開いた瞬間、私は息を呑んだ。外は真っ暗だった。だが、その暗闇の中に――見覚えのある人影が立っていた。
「……ホオズキ?」
私がそう呼ぶと、影が揺れ、静かに一歩踏み出した。月明かりがその姿を照らし、長い黒髪と深い闇のような黒い瞳が浮かび上がる。ホオズキは、私の顔をじっと見つめた。
「……起こしちゃった?」
普段と変わらない、どこか軽い口調。だが、その声には微かな緊張が滲んでいるようにも思えた。
「こんな夜中に……何かあったのか?」
私が尋ねると、ホオズキは小さく笑い、扉の枠に片腕をもたれかけた。
「んー、ちょっとね。散歩してたら、つい寄っちゃった」
「……散歩?」
駅舎の外は真っ暗だ。何があるのかも分からないこの場所で、夜中に一人で歩いていたというのか?
「珍しいですね」
リムが静かに言った。ホオズキはちらりと彼を見て、肩をすくめる。
「ま、そうかもね。でもさ、」
ホオズキの黒い瞳が、まっすぐに私を捉えた。
「……あんた、大丈夫?」
「……え?」
その問いの意味が、すぐには分からなかった。
「何か変なもの、見なかった?」
ホオズキの言葉に、私は思わずリムを見た。リムは無言のまま立っている。
「……いや、別に……」
「そっか」
ホオズキはふっと目を細める。
「ならいいんだけどね」
その言葉には、何か含みがあった。
「……ホオズキ」
私は彼女を見た。
「何か知ってるのか?」
ホオズキは一瞬黙った後、薄く笑う。
「んー、さぁね?」
そして、いたずらっぽく片目をつぶると、
「ま、あんたがここにいる以上、ちょっと気をつけた方がいいかもよ」
そう言い残して、ホオズキは手をひらひらと振りながら踵を返した。
「じゃ、おやすみ」
夜の闇に溶けるように、彼女の姿は静かに消えていく。私はしばらく扉の向こうを見つめていたが、やがて静かにそれを閉じた。
「……ホオズキ、お前は、何を知ってるんだ?」
呟くように問いかけたが、それに答えられる者はもうここにはいなかった。