第二話 駅員室の青年
ホオズキの言葉を反芻する間もなく、待合室の扉が軋む音を立てて開いた。現れたのは長身の女だった。艶やかな白髪を無造作に束ね、引き締まったしなやかな体つき。しかし、その瞳にはどこか獰猛な光が宿っている。彼女のすぐ後ろには、頼りなげな青年の姿があった。
「あ、ほーちゃん。また厄介なもん拾ってきたの?」
女――ヤクが唇の端を持ち上げ、ホオズキを見下ろすように言う。ホオズキは肩をすくめ、挑発的に微笑んだ。
「厄介かどうかは、これから決まることじゃない?」
「ふーん。ま、せいぜい楽しみなよ」
ヤクはひらひらと手を振ると、後ろの青年――リスカの腕を引き、そのまま歩き出す。リスカは抵抗することもなく、静かについていった。その様子を見ていたホオズキが、小さく笑う。
「あの白髪がヤク。で、後ろのぼんやりしてるのがリスカ。二人は恋人同士だよ」
「……そうなのか?」
先ほどのやりとりを思い返す。ヤクの態度はどこか挑発的で、リスカは黙ってそれを受け入れていた。あれが恋人の関係なのか――正直、よくわからない。
「うん。ヤクはリスカが好きで、リスカもヤクが好き。それだけの話」
ホオズキはさらりと言うが、その説明はあまりにも単純すぎる気がする。けれど、それ以上問い詰める前に、彼女は立ち上がった。
「まぁ、そのうちわかるよ。ここで暮らしてればね」
そう言って、ホオズキは歩き出す。
「さて、とりあえず寝床を探そうか。今日はもう休んだ方がいいよ」
「寝床……?」
こんな場所にまともな寝床なんてあるのか――そんな疑問を抱えながら、ホオズキの後を追う。待合室を抜け、暗い通路を進んでいくと、朽ちかけた壁に「駅員室」と書かれた扉があった。ホオズキが錆びついた取っ手を押すと、重い音を立てて扉が開く。
「よし。ここ、あんたの部屋ね」
「……え?」
唐突すぎる言葉に思わず戸惑う。駅員室の中は思ったよりも広かった。隅には古びたベッドと簡素なテーブル、棚には使い込まれたカップや皿が並んでいる。そして――部屋の奥、窓際の椅子に座る男が、不思議そうにこちらを見ていた。
「リム、こいつ今日から同居するから。面倒見てやって」
ホオズキの言葉に、青年――リムがわずかに顔を動かす。しかし、その目は深く垂れた前髪に覆われ、表情は読めない。
「……勝手に決めましたね」
低く、落ち着いた声が室内に響く。拒否するわけではないが、明らかに気乗りしない様子だった。だが、ホオズキは気にした様子もなく、悪びれずに笑う。
「いいじゃん、どうせお前、ずっと一人で仕事してるんだから」
リムは小さくため息をつき、ゆっくりと立ち上がる。長身で、痩せた体つき。しかし、その佇まいにはどこか冷たさがあった。
「……まぁ、寝る場所がないなら仕方ないか。好きにしてください」
そう言うと、彼は再び椅子に腰を下ろした。
「決まりね。じゃ、私は行くから、適当に馴染んどいて〜」
「お、おい、待って――」
止める間もなく、ホオズキは手をひらひらと振りながら部屋を出ていく。静寂が訪れ、私は途方に暮れた。
「……貴方、名前は?」
リムがぼそりと尋ねる。私は言葉に詰まり、首を横に振った。
「覚えてない」
「……そうですか」
それ以上、リムは何も言わず、机の上の何かを指先で弄り始める。どうやら、あまり社交的なタイプではないらしい。気まずい沈黙が落ちる。
「……あの、ここに住んでるのか?」
「はい」
簡潔な返事。それ以上の説明はない。まるでこちらに興味がないかのようだった。
「えっと……邪魔じゃないか?」
「別に」
素っ気ない態度に、どう接していいのかわからなくなる。けれど、ここしか行くあてがない以上、馴染むしかなかった。
「……よろしく」
そう言ってみると、リムはわずかに頷いた。彼が再び沈黙に戻ると、部屋には静寂が満ちる。
「……えっと、私はどこで寝ればいい?」
意を決して尋ねると、リムは顔を動かした。
「……好きにしてください」
「好きにしろって……」
言葉に詰まりながら、部屋を見渡す。一応、ベッドは一つある。もともとリムが使っていたものだろう。
「私は床でもいいけど……」
「別に、そっち使っていいです」
あっさりとした返事に驚く。
「でも……」
「気にしません。別に寝ませんので」
「……寝ない?」
「ええ」
それ以上の説明はない。リムはただ、指先で机をこつこつと叩きながら、何かを考えているようだった。
「……なら、遠慮なく」
そう言って、私はベッドに腰を下ろした。軋む音がして、マットレスがわずかに沈む。ここで眠るのか。こんなに唐突に、こんなに不可解な場所で。けれど、疲れた身体は横になることを求めていた。薄暗い部屋の中、私は静かに横になる。
「……リム」
ふと、その名前を呼んでみた。すると、机の向こうで小さく指が止まるのがわかった。
「何ですか」
「お前は、ここで何をしているんだ?」
それは、ホオズキにもヤクにも聞かなかった問いだった。この駅にいる人たちは、一体何者なのか――。リムはしばらく黙っていた。やがて、ぽつりと言葉を落とす。
「……時空の歪みを管理しています」
淡々とした言葉。しかし、その意味に、私は思わず息を呑んだ。
「時空の……歪み?」
自分でも愚かな質問だと思いながら、思わず聞き返していた。リムは淡々とした様子で机の上の何かを転がしながら答える。
「そうです。この場所は境界線のようなもので、本来、人間が入り込むことはありません。でも、ごく稀に歪みが生じて、そういう例外が発生するんです」
「だから、俺もその『例外』ってわけか」
「……かもしれません」
私は天井を見上げながら、ゆっくりと息を吐いた。なぜここにいるのか、どうして迷い込んだのか――何もわからない。ただ、確かなのは今この場所にいるということ。
「でも、もし俺が来るべきじゃない場所にいるなら、帰る方法もあるんじゃないか?」
リムはわずかに指の動きを止めた。そして、静かに答える。
「……簡単ではありません」
「それは、方法がないってことか?」
「方法がないわけじゃないんです。ただ、貴方が本当に『帰るべき存在』なのかどうか、まだわからないのですよ」
「……?」
言葉の意味がうまく飲み込めない。リムは小さく息をつくと、椅子の背にもたれながら続けた。
「時空の歪みは、ただの事故で起こるわけではありません。そこには、必ず何らかの理由がある。貴方がここにいるのも、偶然ではないかもしれない」
「つまり、俺がここにいること自体に意味があるってことか?」
「……いずれ分かります」
リムはそれ以上、何も言わなかった。ただ静かに指先で机を叩く音だけが響いている。私は薄暗い天井を見つめながら、ぼんやりと思考を巡らせた。帰るべきか、このままここにいるべきか――いや、そもそも自分はどこから来たのか。
(……思い出せない)
自分がどこから来たのか、何をしていたのか。考えようとするたびに、霧のように記憶が掠れていく。
「……なあ、俺って誰なんだ?」
思わず零れた言葉に、リムはゆっくりと顔を上げた。
「それを知るのも、ここで過ごす理由の一つかもしれません」
リムの言葉が、夜の闇に溶けていく。外では、風が遠くで鳴っていた。