外伝。トレエとフクドクの葉陰談話。
カダーヴェレという存在の解説回のようなものです。
静かな夜。風の音すら、森の中では囁きに変わる。
野々宮春日は、大きな樹の根元に座っていた。背中にはざらついた幹の温もり。ゆっくりと鼓動のように脈打つそれは、木の精霊が彼女に寄り添っている証だった。
「春日……眠れないの?」
枝の葉がひとつ、春日の肩にそっと落ちる。木の精霊の声は、森の鼓動そのもののように柔らかかった。
「……眠れないっていうか、夢を見たの。嫌な夢。思い出す夢……」
春日はぽつりと言った。過去の記憶。自分が何を失って、どうしてここにいるのか。心也の顔。自分の声。死神の目。絶望に手を引かれて、深く沈んでいった、あの夜。
「……僕は、もう人間じゃないんだよね」
木の精霊であるトレエはしばし沈黙したあと、穏やかに語りかけた。
「君は"カダーヴェレ"だ。命を失ったはずの魂が、執着と感情によって身体に引き戻された存在。だけど……それは、"壊れた"だけの意味じゃないよ」
春日はゆっくりと目を伏せる。手を見つめても、それはあの頃の自分のものではなかった。触れるものを傷つけてしまうようになったこの手で、何も守れなかったことが、ただ悔しかった。
「カダーヴェレって……呪いの名前みたいだよね」
「そう思う人もいるかもしれない。だが本当は違う。
カダーヴェレって言うのは、死の淵から芽吹いた"再生の名"でもある。壊れた魂の、第二の歩み。希望にすがった痕跡。誰かを想って、戻ってきた証。」
木の精霊の声は、春日の頬を撫でた。
「君は戻ってきた。何かを成し遂げるために。まだ終わっていないことを、終わらせるために」
春日は静かに目を閉じた。
「……でも、僕にはもう、心也の隣に立つ資格なんてない。僕は……僕が壊したんだよ。彼は望んでなかったのに」
「だからこそ君は、戻ってきたんでしょう?壊れたまま終わらせないために。カダーヴェレは、そういう存在なんだよ、春日」
幹から伝わる温もりが、春日の背を押した。春日は、胸に手を当てる。
――やはり、そこには鼓動がなかった。けれどそれは、少し暖かかった。
「……生まれ変わったわけじゃない。壊れたまま、歩くしかないんだね」
「そう。だけど、その歩みを否定する必要はない。春日、君は"自分の意思で"戻った。なら、君にしか果たせない役目が、きっとある」
春日は、夜の闇を見上げた。木の枝の隙間から、星がひとつ、ちらりと瞬いた。
「……だったら。せめて、僕の存在が、誰かの助けになるように、誰かが傷ついた時、手を差し伸べられるように……」
「それが、君の"今"なんだ。カダーヴェレとしての、意味」
木の葉がそっと揺れる。春日は立ち上がった。傷だらけの足でも、倒れそうな身体でも歩き出せる。それが「壊れてなお、生きる者」の在り方ならば。
「……ありがとう、トレエ。もう少し、ここで……心を整えさせて」
「いつまでも、君の根は守るよ。春日」
夜風が、静かに彼女を抱いた。