一話 いねむり官吏
後宮入りした妹が幽霊騒ぎ?兄は優秀な人材がいるはずの宮廷の書庫を尋ねるが?中華風宮廷ミステリーいねむり官吏の推理指南シリーズ第一作!
その部屋は薄暗かった。しかし陰鬱な雰囲気がないのは書棚に並んだ無数の書がきれいに整理されているからだろう。だがその手前の大きな机に向かう官吏は明らかに眠っていた。それだけではない。居眠り中の官吏は書きかけの書によだれまでたらしている。
「おいおい、ここは仮にも、国の、いやこの大陸の中枢である宮廷の書庫だろう。いくら暇と言ったって……」
俊英のひとりごととも愚痴ともとれる声に寝ていたはずの男が起きる。とたんに武官にも見えるほどの大男である俊英が動けなくなった。二十代前半だろうか、色白で細いとがった顎を持つその顔は繊細な女のようだが、男の大きな瞳は瑪瑙のように輝いており、強い光を放っている。それだけではない。男は澄んだよく通る声で思いもかけないことを言った。
「なんだ、刑部の新鋭俊殿には敬意を払えとでも」
俊英は驚いて聞き返す。
「俺を知っているのか?」
「当たり前だ。ここには人事の写しから、つい最近の事件の判例まで、宮廷に関わる全ての書の写しがおいてあるのだぞ」
本当だったのか……
俊英はごくりと喉をならした。外廷でも目立たない場所にあるこの古い書庫は、表向き礼部の仮倉庫とされている。しかし実際には宮廷に関わるすべての書の写しがおかれているという噂があった。そこに勤める者もごく限られた優秀な人材とも。だが刑部の一文官にすぎない俊英を見分けるとはいったいどういう男なのだろう。俊英の戸惑いを感じたのか、男はその形の良い唇の端をあげ、細い指で頭をこつこつとたたく。
「書だけでは火事でもあればすぐに消えてしまうからな。ここに入れておくのも俺の仕事だ」
俊英は素直に感心する。驚くほど記憶力が良いのだろう。俊英は両手を前に組み丁寧に礼をする。
「いかにも私は刑部の俊英だ。そなたの名は」
「堅苦しい挨拶はよい。俺のことは李翠と呼べ。字も翠だし、役職はしょっちゅう変わるから自分でも忘れた」
またもや驚きで俊英はまばたきをする。この国では役職名をつけず諱を呼ぶのは上司かごく親しい年長者だけだ。さらに自分の役職など忘れたという李翠という男がますますわからなくなる。ふと李翠は微笑んだ。だがすぐさま真顔になり、その澄んだよく通る声で俊英に尋ねる。
「して刑部の俊殿は何を知りたいのだ」
とたんに俊英は居心地が悪くなる。刑部の用事ではなく私的な用事で来たのだ。だが悟られないようきわめて事務的に問い返す。
「こればかりはあるとは思えぬが……後宮で起きている幽霊騒ぎの資料はあるだろうか?」
「その通り。さすがにここには後宮の記録はないぞ。何より刑部は後宮での事件を調べられる立場ではないはず」
李翠の言葉に、俊英はぐっと言葉に詰まる。しかしここで引き下がるわけにはいかない。
「わかっている。しかし幽霊騒ぎがもし食事による幻覚などなら帝のお命にかかわる事件だ。刑部として知っておきたい」
とたんに李翠が両手を挙げた。
「まったくあいつがどこで何を食べたかまで写す必要もないと思っていたが、こんなところで役に立つとはな」
あいつ?役に立つ?何を言っているのだ?
とまどう俊英をよそに李翠はまるで世間話をするかのように話し始めた。
「魯美人が景昭儀を幽霊騒ぎを起こしたかどで訴えたと聞いている。そのうえ景昭儀は上級妃の次に帝お気に入り。だが下級妃である美人が中級妃である昭儀を証拠もなしに訴えるとはあり得ない。何があったか知りたいのは景昭儀の兄として当然だろう」
俊英は思わず声をあげた。
「なんでそれを」
李翠はまたもや頭に手をやり微笑んだ。
「言っただろう、書など火事にあえばただの灰。要人の親族から交友関係に関するすべての書もここに叩き込んである」