いいからとっとと告白しやがれくださいませ
メリル・ブランズはとある日メリル・ラディシュアへとなった。
端的に申し上げれば政略結婚である。
実家――ブランズ家はそれはもうドをいくつつければいいのかわからなくなるくらいの貧乏だった。
決して散財や無駄な贅沢をしたわけではない。
小さくとも領地を経営し、そこからの収入で暮らせていたのだ。
だがしかし、慎ましやかな生活はある時を境に簡単に崩壊した。
日照り。
台風。
作物の病気。
そんな感じで次から次に問題が発生した。
いくらなんでも大自然には勝てっこない。
事前に対策を練って実行しても、それでもどうにもならない事はいくらでもある。
とはいえ、小さな小さな領地とはいえその土地に暮らす領民たちまで飢えさせるわけにはいかない。
ブランズ家は蓄えから食料を入手し、領民たちに炊き出しを行いまだまだ大変だろうけど皆で力を合わせて頑張ろうね! と領民たちと一丸となって額に汗して働いていたのだ。
おかげで領民たちとの距離はかなり近い。
田舎にありがちな、同じ村の人間大体家族みたいなもの、くらいの距離感である。
〇〇さん家の屋根が壊れて修理しようにも手が足りなくて困ってるってよ、って話が近所の奥様の間で流れれば、その後はすぐさま手の空いた男衆が駆けつける。
××さんとこの旦那さん、力仕事で腰やって今動けないって。
なんて話がちらっとでも出たら、差し入れに湿布薬を持ってやってくる人や、奥さん何か困ってる? と聞きに行く者も。
困った時はお互い様。皆で助け合ってどうにかこんな状況でも乗り越えていこうね。
そんなアットホームな領地であった。
ちなみに翌年、畑の作物が育ってきたあたりで大雨が連日続いて作物は全滅した。
おのれ大自然……!
だがしかしどう足掻いても勝ち目がない。
流石に皆で飢え死にするわけにもいかず、せめて領民たちは他のもうちょっとマシな土地に引っ越しなどしてみては、と打診もしたけれど自分だけ見捨てて出てくような真似できるかよ、と断られてしまった。
領民が一斉に出ていけば最悪死ぬのはブランズ家だけだったが、そんな事できるかと結局誰も出ていかなかったのである。
食料は不足しているが、人手はかろうじてあるので、またもや皆で頑張るしかなかった。
ちなみに食料はブランズ家が他に借金して購入して皆で分けた。
更に翌年。
流石にこうも連続で自然災害はなかろうと思いたかったし実際その願いというか祈りは天に届いたものの。
魔物たちの大量発生――スタンピードによる余波を受けて土地が荒れた。
かろうじて収穫した作物はあったけれど、到底領民やブランズ家全員に行き渡るようなものでもなく。
売り物として育てていた作物も流石に売り物にならなくなって、再びブランズ家は借金をする事になってしまった。
皆にまじってメリルもまた一生懸命働いていた。
貴族令嬢だろうとそんな身分だけで食べるのに困らなかったら誰も苦労はしないのだ。
両親だって皆と一緒に汗水たらして働いているのだから、子供だろうとなんだろうとメリルも手伝うのは当然だと思っていた。
更に翌年。
天候は特に荒れる事もなく。
いい天気が続いて時々いい感じに雨が降る。実に作物が育つには理想的な天候が続いていた。
今年はいける……! 食料は足りるだろうし、ついでに育て始めた綿花も売れれば万々歳。少しでも借金を返さなければ……と思っていたのだが。
隣国で何か事件があったらしく、結果としてこんな国にはいられっかよ! という感じで国から出ていった民たちがあちこちに流れ、途中で食べ物も金もなくなった者たちが近隣で強奪などの犯罪を起こす事となった。ブランズ家の領地もその影響で若干荒らされた。
売り物予定の綿花が全滅した。
一向に借金を返すアテができないのは流石に問題だとなったらしく、金を貸してくれた先が返済プランの確認にやって来た。
返せそうにないならどうです、そちらのお嬢さん、実は今若い花嫁を募集している相手がいましてね……なんていういかにもな話を持ち掛けられた。
流石に娘を売りに出すような真似はできない、と両親は突っぱねてくれたけれど、しかし金を返すアテなどない。
こんなにも毎年いざ収穫が近づいてきたぞ、って時にそれらを無に帰す出来事が発生しているのだ。
ブランズ家とその領民たちが今のところ飢え死にしていないだけでもいっそ奇跡だと思えるほどだった。
だがしかし、足元を見てきた金貸しは返済期限を早めてきて、それができないならばお嬢さんを……と脅しにかかる。それが嫌ならお金を返して下さいと言われてしまえば借りた側はどうにもならない。
返済期限を延ばしても構いませんが、その分金利は上げさせてもらいますよなんて、どう転んでも首が回らなくなるような状態に陥っていた。
そこで、とある貴族の家からメリル相手に結婚の打診がきたのである。
お相手はラディシュア伯爵家のブレイブン。
メリルの両親は悩みに悩んだ。
資金援助を条件に結婚を、という申し込みはどうしたってメリルを金で売るのと同義だ。
だがしかし、どうにもならなくてつい手を出してしまった金貸しと比べれば、そしてその金貸しがメリルを嫁にしようとしている相手と比べればまだマシに思えてくる。
すくなくとも身元はハッキリしているのだ。
ただ、一つ言うのであれば。
ブレイブンはメリルより十五程年上であった。
メリルがまだ若いから、ブレイブンもまぁその年齢だけを聞けばそこまで年のいった感じはしないけれど。
しかしメリルの父に限りなく年の近い男からの結婚の申し込み。
メリルの父は悩みに悩んだ。貴族とはいえ身分は低く、メリルにはどうせなら身分とか関係なしに好きになった相手と結婚して幸せになってほしいと思っていたからだ。
もっとも、現状幸せになってほしいも何も……という感じではあるのだが。
結婚を決めたのはメリル本人である。
父は悩んでいたけれど、しかしこのままではもっと事態が悪い方向に動いてしまいかねない。
最近金貸しは徐々にこちらに圧をかけてきていて、これ以上突っぱねたらゴロツキでも雇って領民たちを傷つけたりするのではないか、という疑いすらあった。
それどころか、父だって痛い目を見せられるかもしれない。最悪母も連れ去られ、どこぞに売られるかもしれないのだ。
金貸しがそこまで考えているかはわからないが、いつそうなってもおかしくないと思わせるだけのものがあった。
それならばまだ貴族として悪い噂も特に聞かないブレイブンの所に嫁いだ方がマシに思えたのだ。
とはいえ、普通に考えるとこの年齢差。
メリルが十六で嫁いだ時点でブレイブンは三十一。早い段階で生まれたお子さんですと言われてしまえば親子くらいに年が離れている。
メリルの嫁の貰い手がなくて、すっかり行き遅れて三十路あたりにでも入った時に、妻に先立たれてしまって……といった感じで四十五くらいの年齢の男に結婚を打診されるなら、まぁそこまで無い話でもないが、しかしメリルの現在の年齢を考えると彼女は何か問題を起こして普通の結婚ができなかったのか? と勘繰られてしまいそうである。
ラディシュア伯爵家は領地に鉱山を所有していて、しかもそこからは金が発掘できる。鉱脈が枯れる様子は今のところまだないし、当面は金に困る事もないだろう。
しかし、その年になってまで未婚である伯爵がこうしてメリルに結婚を申し込んだ、という時点で。
まぁ、普通の貴族なら何かしらの裏を勘ぐるものであった。
もしや幼女趣味なのではないか、と両親は真っ先に疑った。
近隣の孤児院で幼女だけ狙いを定めていたりしないかだとか、できる範囲で調べてみたりもした。
だがしかし、ブレイブンは孤児院に寄付こそすれど直接的な訪問はあまりする事がなく、しても滞在時間は僅か。仮に自分好みの幼女を見繕おうとするにしても、その短時間では無理だろうと思われた。
割と最低な勘繰りである。
幼女趣味でないにしても、では、もしや他に愛人でもいて、そちらが本命なのではないか?
そういった疑いも勿論出た。
とはいえこちらは伯爵が巧妙に隠しているなら調べようがない。
貴族の愛人をやってる女性はそこかしこにそれなりの数いるようではあるが、では誰がどの貴族の愛人か、なんて調べていけば、下手をすればどこかの貴族に目障りだと判断されてこちらの命が危ない。
最初から目当ての女性だけがわかっていてそちらを調べるだけならまだしも、無節操にあちこち調べ回れば突かなくていい藪を突いてしまうのは言うまでもないだろう。
大っぴらに公表できない相手を愛人にしている可能性は、そういう意味では濃厚であった。
結婚もしないで愛人だけというのも貴族的にはちょっとひそひそされる部分もあるし、体裁を整えるために、愛のない政略結婚を、と考える者もいるのだろう。メリルにはよくわからないが。
だが、もしそうであるならば。
そのためだけにメリルを利用しようと考えたとしても。
正直ブランズ家の抱えている借金はとんでもねぇ額に跳ね上がっている。
何事もなく稼ぐことができれば一応返せる見込みはあるのだが、それだって何十年単位で先の長い話になってしまうのだ。
しかしその借金を一括返済してくれる挙句、領地を立て直すまでの援助は勿論、立て直した後も必要に応じて援助はするという条件を出されてしまえば。
金貸しの言う若い嫁を必要としている相手とやらよりかは、まだ身元のハッキリしているブレイブン伯爵の方がマシに思えるわけで。
しかも太っ腹な事に借金を立て替えた後、利息無しでこちらに返済を、とかそういうわけでもなく援助の金額も特に後になって返さなくてもいいらしい。
とても上手い話すぎて余計に持ち掛けられた結婚話が怪しく思えるが、それでもここで領民たち全員で死ぬような事になるよりはマシなはず。
年若いなりにそれなりの覚悟を決めたメリルは、こうしてブレイブンに嫁ぐことになったのである。
ブランズ家の領地から、ラディシュア伯爵領はそれなりに離れている。お隣さんとかでもない。
だからこそ馬車でごとごと揺られて嫁いでいったメリルは、内心で色んな覚悟もしていたのだ。
伯爵家に到着するなり使用人も同然の扱いをされるくらいはあったとしても驚かないわ、だとか。
それどころか既に愛人がいて、彼女の身の回りの世話をしなさいと言われたりなんて、だとか。
まさか、単純に娼婦を買うより抵抗されない感じで手を出した、とかだったらどうしましょう……とちょっとした不安も生じたりはしたけれど。
まぁ政略であれ結婚した以上、場合によっては後継ぎを産むこともあるだろう。
そういった事も視野にいれて、メリルはラディシュア伯爵家へとやって来た。
結婚式に関しては、大々的にはやらなかった。
そもそも領地同士の結びつきだとかでそれによる人脈の確保・拡大が必要なわけでもなく、男爵家と伯爵家ともなれば共通の知り合いもそういるわけでもない。
ましてや領地が離れているのだ。誰を呼ぶにしても、招待客を選ぶだけでも色々と面倒な事が潜んでいる。
それ故に、式はブランズ家の領地の教会でひっそりと行い、その後荷物を纏めたメリルは用意されていた伯爵家の馬車に乗って揺られてやって来たわけだ。
途中の町でお泊りし、そうしてやって来た伯爵家。
男爵家という一応貴族の生まれであるメリルではあるが、今となっては貴族というのは名ばかりの貧乏貴族。家だってちょっと前に修繕したりしないといけないかなと思う程度には色々と問題が出てきていたけれど、しかしそれよりも優先しないといけない部分がたくさんあったので、家は昔と比べると随分ぼろっちくなっていた。
そんな実家と比べると、ラディシュア伯爵家のお屋敷は。
さながらお城のように見えてしまっていた。
実際のお城を見たらきっとメリルは腰でも抜かすんじゃないだろうか。そんな風にも思ってしまう。
旦那様となったブレイブンは他に仕事があるから、と式を終えた後一足先に帰っていたのでこうしてメリル一人後からやってくる事になったのだが。
想像していたやってくるなり使用人としてすぐ用意しな、と言われるような事も既に愛人がいて彼女に仕えろと言われるような事も、何もなかった。
それどころか使用人の皆さん大層優しい。
あまりにちやほやされすぎて、メリルは理解が追い付かない。
長旅でお疲れでしょうと言われたものの、馬車の中でずっと大人しくしているのは確かにちょっとお尻が痛くなってきたなと思ったけれど普段は朝から晩までそれこそ一杯身体を動かして働くのだから、そこまで疲れたとも言えない。
馬車の中で動かずじっとしている、という普段と違う状況に疲れたのは確かにそうなのだけれど。
まずは疲れを癒すべくこちらをどうぞ、ととても香りのいいお茶とキラキラしたお菓子を出され、とても美味しくいただいた。若干緊張して味がわからない部分もあったけれど、しかし普段自分が食べてる物とは明らかにグレードが違うのだけは理解するしかない。
美味しい……はわ……あまぁ……
そんな感じで語彙力はあっけなく溶けた。
その後はこちらが奥様のお部屋ですよと案内される。
わぁ、広すぎて落ち着けなさそう。
実家の自分の部屋の何倍だ? これ、と言いたくなるくらい広い。
ベッドとか自分が三人くらい並んでもまだ余裕がある感じで寝れそうなくらい大きい。
ベッドの上から手を置けば、ふか……と実家のベッドとは大違いな感触であった。
これは……ちょっと横になって寝そべってみたい気はするけど、それやったら確実に寝るな。
そう判断したのでメリルはそっとベッドから距離をとった。
その後、夕飯だと呼ばれて行けば、今日って何かのお祝いですかと聞きたくなるような豪華な食事。
うわ、お肉とかこんないっぱいなの久々に見たな。普段はもっと少ない量しか出てこなかったし。
えっ、これ一人分? 全部自分で食べていいやつ?
あまりみっともない真似は晒さないようにと気をつけて表面上は冷静を装っていたが、若干きょどきょどしているのを、使用人たちは微笑ましく見守っていた。
ちなみに旦那様となったブレイブンはまだ仕事が終わっていないらしく、夕食時には姿を見せなかった。
さて、その後はお風呂に使用人たちに連れられて入る事になり、それはもうピッカピカに磨かれた。
貴族令嬢ではあるけれど、メリルは思い返せば自分の人生でこんな風に使用人に何もかもを委ねた入浴なんてしたことがなかった。
あまりの気持ちよさに危うくそのまま寝るところだった。
色々と気を張り詰めてはいた。
メリル一人を嫁に出すだけで今までの借金全額負担してくれるだとか、更には伯爵家とは何の関係も旨味もない領地に援助してくれるだとか、絶対何か裏があると思っていたのだ。
けれども、その何か裏がある、と思ったその部分が中々わからない。
いざとんでもねぇ事言われても驚かないぞ、と気を引き締めていたものの、馬車に揺られて普段とは違う疲労感があったのと、美味しいご飯と温かいお風呂とくれば、いくら若くて体力があるメリルでも眠気はやってくる。
正直眠たすぎてちょっとうとうとしているが、しかし結婚した以上やってくるものがある。初夜だ。
本来ならば結婚式を挙げたその日の夜とかが初夜なんだろうけれど、ブレイブンは仕事の都合で一足先に屋敷に帰ってしまったし、自分もまたここに来る前に町で泊まりそれなりの距離を移動してきた。
実に数日遅れの初夜である。
緊張とかそういうのがないわけじゃないけれど、半分以上眠気が勝っている。
一応どういう事をするのか、というのはメリルだって知識として知ってはいるけれど、正直眠すぎてヤるなら寝てる間に全部済ませてくれないかなとか割と最低な事まで考え始めた。
ともあれ、ブランズ家の領地領民まるっと危機を助けてくれた恩人でもあるので、流石に寝てる間に済ませて下さいとか言えるはずもない。
流石にそれは人の心がなさ過ぎんか……? と思ってしまう。
旦那様がそういう、眠っている女性に対して一方的にそういう行為をするのが最高に性癖ですとかいうならまだしも。
いや自分の想像上の旦那様割とクズだな……? 恩人だと言うのになんという……わざわざ結婚を申し込んできたとはいえ、今まで接点もなかった相手だ。裏があると思うから、こうやってあれこれ勘ぐってしまうのだろう。
そういうわけでちょっと頭がこっくりこっくり舟をこぎつつあったけれど、どうにか夫婦の寝室へやってきた。旦那様はお仕事も終わってこれから身を清めてくるらしい。執事のおじいちゃんに言われて、メリルは、
「わかりました……」
とどうにかこたえた。
油断してるとこのまま寝そう。
一応部屋の外に使用人が数名控えてくれるらしいので、何かあったら呼んでとの事だが。
何かって、何?
眠気に支配されつつあるメリルの頭には、どういう時に呼ぶのが正しいのかさっぱり思いつかなかった。
寝落ちする前に旦那様がやってきたのは、ある意味で救いだった……のだろうか。
明かりを控えた薄暗い室内に、ブレイブンがやってくる。
一応何度か顔を見てはいたけれど、薄暗い室内だと何となく雰囲気も違う気がして一瞬どちら様? とか思ってしまったけれど。
流石にこの状況で寝落ちるわけにはいかん! 目覚めよ私! と声には出さず内心で気合を入れる。
年の離れた兄、もしくは年若い父親、くらいの年齢差のある男性は、どこか思いつめたような眼差しをしていた。
黙っていれば顔はそれなりにいい方だとは思う。
社交界とかでちょっときゃあきゃあ言われそうな見た目だとは思う。
とはいえメリルはあまり社交界とは馴染みがないので、キラキラした王子様みたいな人がお好みな女性からはあまり人気が出そうにないかも……とちょっと失礼な事も考えた。
彼はどちらかといえば、そんな王子に控えて仕える騎士のよう……とでも言えばいいだろうか。
あまり女性に慣れてる感じはしなかった。
だがしかし、年の離れたメリルに結婚の打診してくるくらいなので、女性慣れをしていないように見えるだけで若い女性ならなんでもいい節操なしの可能性も捨てきれない。
あまりブレイブンの事を知らないから、どうしたって疑うような想像は出てきてしまう。
うっかりベッドに横たわって待っていたら確実に寝るので、ちょこんと腰かけて座ったまま待っていたのだが、ブレイブンはそんなメリルの前に立つと目を合わせるようにそっと跪いた。
「私は貴方の事を愛する事はない……」
そのセリフを聞いて、メリルはハッとした。
貧乏男爵家であったけれど、それでも娯楽書の何冊かは家にあった。
そしてそのセリフは、とても覚えがある。
政略結婚した女に初夜の日に男性が言い放つセリフの一つだ。
お前を愛することはないと初夜の日に旦那に言われましたが、別にこっちも愛してません。
そんなタイトルの娯楽書がメリルの実家には置かれていたのだ。
確かそう言った夫には、密かに愛する恋人がいた。
彼女は夫と身分が釣り合わず、そのせいで結ばれる事もなく。
政略で結婚をして白い結婚をして何年か――正確な年数は覚えていないが一年か三年くらいだったと思う――経過すれば、次の結婚でその愛人扱いしていた女性と無事に結ばれる事ができるとかどうとか。
そんな風に語り始めるのだ。
その話がその後どうなるかは生憎覚えていない。
メリルはゆっくり家で読書する時間より、皆と一緒にとにかく困難に立ち向かうべく外であれこれやる事が多すぎたので。
パラパラッとページを適当に流し見たくらいで、内容はこれくらいしか覚えていなかった。
だがしかし、そんな本にも載ってるようなセリフである。
では、つまり彼には本当に愛する人が――
メリルは別に悲しいとは思わなかった。
むしろ何か裏があると思っていたので、やっぱり! と逆にスッキリしたくらいだ。
あまり年のいった相手とそんな白い結婚をしたらお別れした時、相手の女性に次の結婚相手が見つかるかもわからないし、それなら若い方がまぁ、まだ巻き返せると考えたのかもしれない。
ブレイブンと大体同年代の相手と白い結婚をすれば、一年なり三年はかなり大きい。
だがメリルなら。
十六から十七になってお別れか、はたまた三年であれば十九。
まぁ、まだどうにかなりそうな気はしている。
とはいえ、実家を考えると別に行き遅れも何も……という話なのだが。
貧乏男爵家の娘を何が何でも娶ろうと思う物好きがいるとも思えない。
恋愛結婚をするとしても、メリルはきっと相手が貴族ではなく平民の可能性の方が高いなとすら思っている。
そう考えると、二十歳になる前に白い結婚からの離縁でも何も問題はない。
「…………と、誓うべきなのかもしれない」
ん?
メリルがなるほどな、とやはり裏があったんだね安心した! とばかりに納得していたら、長い逡巡の後で血を吐くような声が続いた。
え、ちょっと待って?
少し前のセリフからつなげると、愛することはないと誓うべきなのかもしれない?
んん? どういうこと?
なんかわからなすぎて、一瞬とはいえ眠気は旅立っていった。
「え? あの……どういう事、でしょうか?
誓わずとも、他に愛する人がいるなら別に」
「そんな人はいないッ!!」
「あ、はい」
凄い勢いで叫ばれた。
「私が愛しているのはただ一人」
「あ、それはいるんですね」
「だがしかし……相手からすればこんなオッサン好きになるはずが……」
「あれ?」
今しがたの勢いはどうしたと言わんばかりに小声になる。
だがしかしメリルの耳は確かにブレイブンの言葉を捉えていた。
「大体金ちらつかせて強引に結婚とか、挙句そんなのに愛されても気持ち悪いだろう……
それならいっそどこまでも政略であると割り切って愛などない方が……」
「あの、ちょっと? 待ってください? もしもーし?」
跪いていた姿勢のままではあるが、顔は俯いてしまっているのでメリルからブレイブンがどんな表情をしているかはわからない。
「大体年齢差を考えたら自分のほぼ半分だぞ。気持ち悪くない方がどうかしている」
小声でぼそぼそと呟いているが、バッチリ聞こえている。
だけどブレイブンはメリルの声をスルーしていた。小声で呟くブレイブンの声がメリルにバッチリ聞こえているのだから、特に声を小声にしてるでもないメリルの声がブレイブンに聞こえていないはずもないのに。
「まぁ確かに、私他の女の人と比べると下についてないだけで男の子って言われてもわかんないんじゃないかなってくらいですもんね。そういう趣味でもなかったら女として見れないとかそういう」
「そんなわけないだろう!?」
「あ、はい」
聞こえてないのかしら、と思いながらも適当に、まぁ言うて自分領地でお腹いっぱい食べるのここ数年できてなかったし、痩せてはいるけど出るべき部分も出てないからスレンダーすぎて下手すると少年に見えなくもないのでは? だとしたら、男同士とかそういうの趣味ではない、みたいな相手なら女に見えない女とか、冗談じゃないよねぇ……ってな感じで言えば即座に否定された。
なんだ、聞いているではないか。
がばりと顔を上げて言うブレイブンのその表情は薄暗い室内な挙句こちらからはあまりよく見えないけれど、それでも何となく冗談で言っているという感じではなかった。
「君が、望むなら」
再び徐々に顔が俯いていくのを見ながら、メリルは黙ってブレイブンの声に耳を傾ける。
「この想いを君に向けないと誓おう。ただ、君が幸せになる手伝いだけはさせてほしい」
「えぇと……?」
「金ならいくらでも出す。だからせめて近くにいる事だけは許してほしい」
いっそ清々しいまでに言い切った。
けれども、それは。
「それ、私が金だけ領地に出してそれ以外拒絶したりとかしたら、どうするんですか」
「構わない。ただ、近くにはいてほしい」
「お飾りの妻、という事ですか?」
「その方がいいのなら」
「そもそもあまり貴族らしい事はしたことがないので、伯爵家の夫人、と言われても当分は何もできる気がしませんが」
「構わない。君はいっそただここにいてのびのびと過ごしてくれればそれで。欲しい物があるなら何でも用意しよう」
聞けば聞くほどなんというか、うまい話すぎて怪しいなと思えるものなのだが。
「どうして、そこまで?」
いや流石に何か理由があるんだろうな、とはメリルだって思いつく。
もしかしたらメリルにはわからない事情があるのかもしれない。
例えば――そう、私を嫁にしないと三か月後くらいに謎の死を遂げるとかそういう感じの事を凄腕占い師とかに予言されたとか。いや流石にそれはないわと思うけれど。
だが、もし自分の命が犠牲になる状況下で、メリルを嫁にすればその悲劇的な何かから回避できるとなれば、領地に援助とか微々たる出費なのかもしれない。命の価値を金額に換算するとなると、きっと伯爵家のこの人の価値は自分の領地を救うだけの金額を超えるのかもしれない。
その程度の金で自分が助かるというのであれば、そういう話を持ち掛ける事もあるかもしれない。
とはいえ、自分が何の救いになるのか? という疑問は当然ながら辿り着く。
「君は、私の命の恩人だから」
「はい?」
えっ? 今なんて?
そんな感じの声が反射的に出た。
「六年前の事だ」
「六年前、ですか……」
具体的な年数が出たので、メリルは記憶を思い返してみる。
あの頃はまだ借金とかしてなかった頃だ。
皆で畑耕したり必要な道具を作るのに色々やったりしていたここ最近と違って、あの頃はまだ遊びに行く余裕があった。
領地の子たちと野山を駆け巡ったりもしたものだ。
川にいって、魚を捕まえたり。
山に入って食べられる木の実を採ったり。
……思い返すと貴族令嬢というか完全に山猿のような気がしてきた。
まぁ、名ばかりの貴族だものねうち。
「あの頃はまだ私の周囲には敵が多く、安息の地というものはなかった」
おっと、過去語りがやってきたぞ。
とりあえずメリルはそっと姿勢を正して聞く体勢をとる。
「当時は父が迎え入れた後妻が家の中で好き勝手していてな。自分の立場は低かった。
使用人たちも、最初はともかく気付いた時には軽んじるのが当たり前になってしまっていた。屋敷に居場所なんてなかったんだ」
「それはなんというか……」
「その後父が亡くなって、自分が伯爵となった時に色々と片付ける事があったのだが、その、恥ずかしい話なんだが」
「はい」
「領地内の視察ついでに近くの領地に住む友人の元へ行ったものの、その帰りに後妻が雇っていた人物がどうも後をつけてきていたようで。そいつが背後から忍び寄っていたらしく。
川に、突き落とされた」
「あらまぁ」
大丈夫だったの? という質問はしなかった。
今ここにブレイブンがいるのが何よりの結果だろう。
「流れのある川に、ほとんど無抵抗のまま落ちて私は流された。そうして流された先で――君に、助けられた」
「へぇ」
……えっ?
とりあえず相槌を打っていたものの、六年前にそんな事あったっけ……? とメリルは首を傾げた。
ん? いやまてよ?
川、流され……助け……あっ!
「あの時の!?」
「思い出してくれたか」
「えっ? なんか外見変わってませんか?」
「あの頃は周囲から色々良い扱いを受けていなかったからな。あの頃の私は小枝のような頼りなさだっただろう?」
小枝みたいにほそっこかった人なら記憶にある。
えっ、あれから六年でこんな変わるの?
六年前、だけではピンとこなかった。そもそもブレイブンと出会った記憶もないが、しかし今のブレイブンの姿で六年前にそれっぽい出来事があったかを思い返せば記憶にないのは当然だった。
当時のブレイブンは、背丈は今もそこまで変わっていなかったと思うが本当に細かった。
ちゃんとご飯食べてる? と言いたくなるくらい細かったし筋肉だってほとんどついていなかったように思う。
川から流れてくるのを見つけた時、メリルはてっきりもう死んでるんじゃないかと思っていたのだ。
それでも見なかった事にはできなかったし、メリルが見つけたのは川の大分下流の方で流れも緩やかになりかけだったので、その時たまたま一人だったメリルでも男を川から引き上げる事ができた。
当時十歳のメリルは野山をほぼ毎日駆け巡るくらいにパワフルだったので。
細いといってもちょっと引き上げるのに苦労した覚えもある。
あまり水を飲んでないうちに気絶したのか、ちょっとお腹の部分を押したら大体水を吐き出し終えていたけれど、それ以上の事は当時のメリルにはできなくて、大人の人呼んでくるから待ってて! と声をかけて助けを呼びに行って――
戻ってきたら、彼はいなくなっていた。
しばらくは気にしていたけれど、しかしその後領地は大自然の猛威にやられ放題。名前も知らぬ溺れていた男の事など気にする暇すらなくなって、そうしてそのままメリルの記憶から薄れていったのである。
ブレイブンは当時、周囲に敵しかいないのかというくらい自らの周辺が荒れていた。
父の後妻に入った女が家を乗っ取ろうとしたり、それはどうにか防いでいたもののそれ以外でも周囲には様々な敵に満ちていたのだ。
後妻がない事ない事噂を流した結果でもあった。
当時のブレイブンは一見すればマトモな生活を送っていたが、使用人たちまでもが後妻の味方となっていて落ち着ける場所なんてなかった。かといって家を出ていくわけにもいかない。そうすれば後妻の狙い通りになってしまう。
恐らくあの女は自分を飼い殺しにして領地経営などの仕事はやらせておいて、甘い汁だけを啜ろうと目論んだのだろう。だからこそ食事は最低限であったし、睡眠中に使用人たちを使ってこちらがぐっすり眠れない状況を作り上げたりもしていた。
身体の関係を迫ってこなかった事だけは、ブレイブンにとっても救いだった。
領地内の視察という名目をもって、どうにか近くに住む友人の元を訪れる事ができたのは、ブレイブンにとって救いの一つとなった。とはいえ、流石にその友人に家の状況を知らせて助けを求めるのは色々と思う所があってできなかったけれど。
だが、後妻はブレイブンを自由にしてやるつもりなどこれっぽっちもなかったらしく、金で雇った人物を自分につけていた。
あからさまに従者としてついてきたわけではなかったので、ブレイブンも気付けなかったのだ。
友人の家で、あまり赤裸々に家の事情を話すわけにもいかなかった。社交界の噂ではもうラディシュア伯爵家は後妻が我が物顔で振舞っていると知られていたようだけれど、父を亡くしたばかりの義息子を支えていると言われてしまえばギリギリその言い分が通る程度であったのだ。あの女はそういったギリギリを見極めるのが得意であった。
友人のいる領地で事故にあってしまえば、不幸な事故で片付けられたのだろう。
これがラディシュア領であったなら、後妻が何かをしたのではないか、と勘繰られていた可能性は大いにある。
一応食べているとはいえ、少ない食事量、そしてやらねばならない大量の仕事、寝ようとしても巧妙に妨害されてロクに取れない睡眠時間。
寝不足からの不注意による事故、というのが発生するにはまさにといったところであったかもしれない。
馬に水を飲ませてやろうと川に近づいて、そこでブレイブンは後妻が雇った相手に背後から襲われ川に転落。思った以上に流れが速く、ブレイブンはあっという間に流されていったのだ。
思っていたよりも早い段階で意識を失った事もあってか、溺れかけたのをどうにかしようとして更に水を飲む、なんて事にはならず。
多分、ではあるがそのまま流れに身を任せて仰向けにでも浮いて流されていったのだろう。
意識が浮上したのは、声が聞こえたからだ。
どれくらい気を失っていたかはわからない。
なんだか寒いような気もしたけれど、それすらよくわからなかった。
しっかりしろ。こんな所で死ぬんじゃない!
そんな風に聞こえてきた声。間違いなくブレイブンに向けたものだ。
うっすらと目を開けてみれば、そこにいたのは小柄な少女。
もしかしたら声変わり前の少年かもしれない、と思ったが少女だろう。きっと。
生きろ! お前が死んでもお前の事が嫌いなやつが喜ぶだけだぞ!
そんな風に言って、少女は自分の腹をぐっと押した。飲んだ水を吐き出させようとしたのだろう。
思った以上の力強さで、ブレイブンは無意識のうちに水を吐き出した。
人呼んでくるから、それまで持ちこたえてね!
そう叫んで、少女の軽やかな足音が遠ざかっていく。
朦朧とした意識の中で見た幻覚かとも思ったが、次の瞬間一気に覚醒した意識がブレイブンの目をがばっと開けた。
水から出たと自覚して、冷え切った身体は今更のように震えてきた。
ガチガチと歯の根が鳴る。
呼び止めようと思ったものの、ブレイブンは咄嗟に声が出せなくて遠ざかっていく少女の姿を見るだけだった。
大人しく待っていれば、助けが来る。
それはわかっていた。
しかし、あの少女が誰かもわからず、また連れてくる相手がどんな者かもわからない。
もし、あの後妻の関係者であったなら。
弱り切った今こそ好機ともっともらしい理由をつけて今度こそ殺されてしまう。
抱いたのは恐怖。そして、怒りだった。
自分を助けようとした少女の言葉。
自分が死んでもそれは後妻を喜ばせるだけ。
その事実に。
なんっであんな女を喜ばせてやらなければならないんだ!!
と遅まきながらブレイブンの心には確かな怒りが宿ったのだ。
怒りによる脳内麻薬の大量分泌でもあったのか、ちょっと前まで感じていた寒さは感じなくなっていた。身体は震えていたけれど、寒さというよりは怒りで震えていたと思う。
今の今まで自分の立場が不遇であった事が当たり前だと思っていて、すっかり負け犬根性が染みついてしまっていたけれど、ブレイブンはようやっと反撃の狼煙をあげようとしたのである。
勢いのままに起き上がって、服を一度脱いで水を絞ってそれからブレイブンは急いで領地へ戻るべく行動に移ったのだ。
人間、大抵は勢いだけで行動するとろくな事にならないが、ブレイブンの場合はむしろその凄まじい勢いが様々な原動力へと変換されたのである。
かろうじて服についてた素材も意匠も一流なカフスボタンを金に換えて馬と交換し領地へ戻り、でかい顔してた後妻に様々な不正の証拠を叩きつけて罪人としてしょっぴいて。
ついでに自分に対して無礼な扱いをしていた使用人たちをクビにする。紹介状? あるとお思いか?
誰がお前らの給金支払ってると思ってるんだ。俺だ!
主人に対して礼儀もマトモにわきまえず、主人の区別もつかぬ駄犬に紹介状? あるとお思いか??
どうしようもない連中を一掃し、ブレイブンは自らの足元を固める作業へ移る。
そうして一段落ついて、それから自分を助けてくれた少女の事を調べた。
メリルの事はこの時ようやくマトモに知る事となったのだが、改めて礼を……とはできなかった。
メリルのいる領地はこの時点ではまだそこまで酷い事になっていなかったけれど、覚醒したブレイブンが何をするにも身体は資本だなと体調管理をしつつ事後処理などをしていると、今度は未婚の貴族女性を持つ貴族の家からうちの娘と縁談どう? という誘いが大量に来るようになってしまったのだ。
痩せ細って疲れ果てた男が身体を鍛え健康的になると、なんとかなりの美丈夫へと変化を遂げたので。
未婚の伯爵。年齢はまぁ、貴族令嬢なら行き遅れと言われるものだが男性ならばそこまででもない。
領地の状態などを見る限り没落しそうな予感は感じられないし、ましてや最近になっていよいよ周囲に存在していた膿を一掃した相手だ。
両親も既に亡くなっているので、嫁いだ令嬢と義母との嫁姑のあれこれだとかの心配もない。
ブレイブンはそういった色々な部分から、結婚相手としてかなりの優良物件認定を受けてしまったのである。
次から次に届く釣書。
まだ若い女性から、未亡人、色々あって行き遅れた女性まで。
実に様々な相手がブレイブンの結婚相手にと名乗りを上げたのである。
とはいえ。
ブレイブンにそのつもりは一切なかった。
まずは自分の足元をしっかりと盤石なものにしなければ、いつまた後妻のような女が現れたらと思うととてもじゃないが安心できない。
下手な女に引っかかるつもりはないが、しかし自分の恋愛遍歴を思い返せば経験豊富な女狐に勝てる気がしない。中途半端に女性と関わるよりも、一切の接触を絶った方が確実である。
そうして、やってくる結婚のお誘いを断って断って釣書もちぎっては投げ。
王命だとかで婚約を結ばされるような事にならかったのは、ブレイブンにとって救いであった。
そうしてようやく自分の周辺が落ち着いてきた頃になって。
かつての命の恩人のところに改めて礼をと思ったものの。
この時点で数年が経過していたのである。ブレイブンにとってとんでもねぇモテ期であったが、何度も体験したいものではなかった。
そしていざかつての恩人の周辺を調べてみれば。
領地はカツカツ火の車だし、金貸しがメリルをどこぞの金持ちの嫁になんて話をしているようだし、いつ没落してもおかしくないし。
さらに調べると金貸しがメリルを嫁にいかせようとしている相手は、年若い娘を甚振る事を好んでいるらしいという黒い噂のある人物であった。
ブレイブンの行動力に火がついてロケットスタートしたのは言うまでもない。
そんな、ブレイブンの思い出語りを聞いて、メリルは思わず視線を泳がせていた。
なんというか、その……十歳の娘のやる事、というのを念頭に置いておいてほしいのだけれど。
その頃メリルはとある本に影響を受けていた。
全てを奪われてしまいましたがいずれ華麗に返り咲いてみせますわ!
という娯楽書である。
義理の妹に何もかもを奪われて失意のどん底、絶望の真っただ中にあった主人公は、いっそ自死を選んでしまえば楽になれるのではないか……と思い始めてしまう。
そしてそれを実行しようとしたその時、彼女の行動を止めた者がいた。
ずっと彼女に仕えていたメイドである。
自分も義妹に目をつけられて危うい立場であるのに必死になって主人公が死のうとするのを止めたのだ。
今は辛く苦しいだけかもしれません。ですがお嬢様、貴方が死ねば喜ぶのはあの女だけです。
そして貴方が死ねば私はとても悲しい。今は亡き奥様――貴方のお母様が生きていたら、そのような選択を喜んだでしょうか。奥様は亡くなる前、お嬢様に何と言いましたか? どうか生きてほしいと……そうおっしゃっていたじゃないですか……!
なんて感じで。
その時の、貴方が死んで喜ぶのは貴方を嫌っている者だけです、という言葉がメリルの心に突き刺さったのである。
人生で一度は言ってみたいセリフにランクインした。
とはいえ、そんなセリフ、言う機会など中々ない。あってたまるか。
一緒に遊ぶ事もある領民の子たちとままごとみたいな遊びでなら言える機会も出るかもしれない。いっそ本の内容そのままなりきりごっこをすれば、言う機会はあるだろう。
けれども、五歳くらいの頃ならそういった遊びに抵抗はなかったが、メリルも十歳になってからはそういうのは流石にちょっと気恥ずかしかったのだ。
だからこそ、言ってみたいけど言う機会はなさそうな言葉だなー……と思っていたのだが。
そこに死にかけてた男――ブレイブンである。
ブレイブンの背景事情など知る由もなかったが、助けたついでに今がそのチャンスなのでは!? と思って言ってみたに過ぎない。
もしあの時、ブレイブンの意識がもうちょっとハッキリしていて、なおかつその本の事を知っていて、それを口に出していたならば。
メリルはあまりの恥ずかしさに両手で顔を覆って転がりまわったかもしれなかった。
そんな、ちょっとした黒歴史の気配漂うそのセリフが、まさかブレイブンのやる気に火をつける形になっていようとは。
うんでも流石に本にあった割とお気に入りのセリフを言ってみただけ、とは暴露できなかった。
昔の話だ。
だが、時効だなんて言えるはずもない。
なるほどなぁ、とメリルは話は理解したとばかりに頷いた。
ブレイブンが自分に結婚の話を持ち掛けるに至った流れは理解できた。
命を救った相手に対する恩義。
とはいえ――
そもそも愛することはないと誓うべきかもしれないとかなんとか言っていたではないか。
んん? つまり、私、そういう相手として見られている?
結婚相手に選ばれた理由はわかった。
それすらわからなかった時点では色々と勘繰ったけれど、事情が明らかになればまぁ、その色々勘繰ってしまった事がちょっと申し訳なくなってくる。ごめんな性癖ヤバい相手だと思ってた。いや、今の年齢差考えるとそれでも周囲からひそひそされそうではあるんだけども。
――ブレイブンは確かに命の恩人であるメリルへ何らかの礼を、と考えてはいた。
けれど彼女がよろしくない噂の男のところへ嫁に出されるかもしれないと思った時。
どうしようもない焦燥に駆られたのである。
そうでなければ、精々資金援助だけで済んでいただろう。
彼女を守るためにはむしろ自分が保護するしか……!
そんな風に自然に思っていた。
その後冷静になって年の差考えて崩れ落ちたけれど。
命の恩人。
同時に、自分という存在を踏みにじられてそれを何とも思わなくなっていた自分に喝を入れてくれた人。
まさに自分の人生はあの時、大きな分岐点にあったのだと思っている。
まるで天から遣わされた御使い――というのは大袈裟かもしれないが、それくらいに思えたのだ。
うっすらと目を開けた時に見えた姿は、男にも女にも見えていた。それもあって余計にそう思ったのかもしれない。
御使いであるならばきっと、穏やかに諭すように話していたかもしれないがメリルは人間だというのも勿論理解している。
それもあって、自分は死の淵に向かっていたはずが、あの力強い声と言葉にまさしく引きずり上げられた。
結婚のお誘いがこれでもかとやって来た時、条件的には良い相手も勿論いた。
けれども、それすら断ってしまっていた。
あの時は自分の足場をしっかり固めておこうとしか思っていなかったはずだけれど、しかし漠然と彼女ではない……という思いがあったのだとかなり遅れて気付いていたのだ。
現在ラディシュア家で執事をやっている老齢の男に、ふと零した事もある。
執事は仮にも主人であるブレイブンに、
「それはもうどこからどう見ても恋。現実を受け入れなさい」
とずばっと言ってのけた。
執事の言い分を一応述べるのであれば、ブレイブンは無意識にメリルに対する恋心を駄々洩れさせていたので、割とどうでもよくなっていた、という部分もあった。
面白い惚気は聞くのも苦ではないが、進展のない惚気を延々聞かされてみろ。進展するなり終わるなりいつ話が変わるんだろう……となっても仕方がなかったのである。
メリルがラディシュア伯爵家にやって来た時、使用人たちの眼差しが生温かい物だったのはこれが原因であった。
既に結婚はしてしまっているけれど、しかしその結婚はお互い愛があってしたものでもなく、ブレイブンが一方的に金で買ったようなもの。政略結婚の場合、たとえば双方にメリットがあってするものだし、そういう意味でなら双方に利はあった。
ただ、ブレイブン側の利益とは……? と周囲に理解されにくいからこそ裏があると疑われ、幼女趣味かと疑われていたのだが。
もたもたしている暇はないと思ったからこそ即座に行動したものの、ブレイブンは要するに、行動順序を間違えているだけだ。
その『だけ』が大抵世の中面倒なすれ違いを生じさせる事になるのだが。
とはいえ、メリルは確かに野山を駆け巡り領民の男の子たちと一緒に泥だらけになって遊びまわるくらいにやんちゃな子であったけれど、知能までお猿さんというわけではない。
平民には平民なりの処世術もある。領民の子たちと一緒になって行動しているうちに、そういうものを教わった事もあった。
相手の顔色を窺う事に関しては、メリルもそれなりに長けてはいるのである。
というか、そもそもブレイブン、さっき心のうちまるっと暴露したようなものだし。これでわからないとかそれはもういっそ鈍感通り越してただの馬鹿だ。
金で買うような真似をしておいて――というか実際にお買い上げも同然なのだが、そこまでやったなら、もういっそ開き直ってしまえばいいだろうに。
メリルとしては嫁ぐと決めた時点でとっくに覚悟を決めてきたのだ。
どれだけ酷い立場になって冷遇されようとも。
それくらいの覚悟はしてきたつもりだ。
……まぁ実際全然そんな事なくてブレイブンとこうして寝室で一緒になるまでは、待遇が良すぎてどういう事なの……? と困惑もしたけれど。
というか、女らしくもない自分にそこまでよくもまぁ、と他人事のように感心している部分さえあった。
ブレイブンの見た目は六年前と比べると随分と見違えている。だからこそ、結婚相手を選ぼうと思えばかなり選択肢があっただろうに。
その中で自分を選ぶなんて物好きだなぁとも思っていた。恩義を感じるにしても、そこまでしなくたって……とも。
ブレイブンはある程度ぽろっと暴露したものの、己の恋愛遍歴に関してまでは口にしていない。だからこそメリルはそれを知る由もない。
幼い頃は両親がいて、あのまますくすく育っていればどこかで恋をして、もっと早くに婚約者を決めて、メリル以外の令嬢と結婚していた未来もあっただろう。
けれども母が病でなくなって、その後最愛を失った父は息子への関心を薄れさせ、そうして寂しさを埋めるように後妻を迎え入れた。
母とは似ているようで似ていない女性。雰囲気でパッと見ただけなら、似ているように思えたけれど中身は全くの別物だ。
しかし父はそのまがい物に心を許し、結果としてブレイブンの立場は随分と低いところまで追いやられた。
父が死んだ後も後妻が家を我が物顔にしていたくらいだ。そしてその頃にはブレイブンも日々身の危険を感じながら生きる事に精一杯だったので恋をする余裕など当然あるはずもなく、そもそもそんな相手と出会える機会もない。
婚約に関する事だって、もしかしたらいずれ、あの女が自分を更にいいように扱えそうだと思った相手がいたら平民だろうと無理矢理結ばされる形になっていただろう。
まぁ要するに。
婚約者との交流なんてものも存在しなかったし――そもそもそのお相手がいない――恋をしようにも出会いすらなかったのだ。初恋と呼ぶには遅く、老いらくの恋にしては早すぎるが正直それに近しいものがあると言えなくもない。
「ブレイブン様」
メリルはともあれ声をかけた。
いい加減本当にそろそろ眠くなってきたし、一応裏のある結婚ではなかったと判明してしまえばあとはもうどうでも良かったのだ。
なのでメリルは貴族令嬢にあるまじき明け透けさでもって話を進める事にした。
「結局のところ、これは白い結婚なのでしょうか。それとも違うのでしょうか?」
「そ……! れは……君が、望むのならば白い結婚であっても」
「肝心な決断を人に簡単に委ねてはいけませんよ。私は、貴方の意思を聞いているのです」
「しかし……その、年の差を考えると……」
ちっ、と舌打ちしなかっただけメリルは堪えた方である。
それが単なる優柔不断ではないとわかってはいる。
こちらを思ったが故の言葉であることも。
だがしかし。
男なら、こういう時に決めずしてどうする!
と叫びそうになる。
メリルからしても、ブレイブンはこうして考えてみれば文句のない人物である。むしろ自分の結婚相手として考えるならば、とんでもなく過ぎた相手だ。
結婚に至るまでの流れが完全に人買いだが、玉の輿と考えられなくもない。ただ若い女なら誰でも良かったわけでもないようだし。まさに破格の相手。本来ならこっちから結婚してくださいってお願いしても結婚できるような相手ではないのだ。
「私、確かにお金目当てで結婚しましたけれど。でも、それなりに覚悟を決めてきたのです。
貴族令嬢としてはこれっぽっちもなっていないけれど、それはこれから、まぁ、追々……
てっきり旦那様の好みに染められていくのだろうなとも」
「なっ……!?」
ぼふん、と頭のてっぺんから湯気でも出そうな勢いで思わずブレイブンは俯いていた顔を上げていた。
同時にメリルはすっと腰を下ろしていたベッドから立ち上がる。跪いていたブレイブンとの目線は、大分離れた。
それでも、見下ろす形になってしまったメリルからブレイブンの表情はよく見えた。
薄暗い部屋だが、それでも長々話し込めば目だってそれなりに慣れてくる。
どっちが生娘かわかんねぇな……とか口から出さなかっただけメリルは褒められて然るべきだ。
「とりあえず!」
メリルが声を上げれば、ブレイブンはまるで三行半でも突きつけられるような反応でもって大きな体を縮こまらせた。
「私はとっくに覚悟を決めておりますが、正直に申し上げますと今日はもうとても眠たいので、初夜に関しては後日改めてお願いしたい所存です」
「え、あ、そう、だな。馬車に揺られてきたばかりなのだから、疲れているのは当然だった。配慮が足りず……」
「なのでですね!」
「あ、はい」
メリルはブレイブンを避けるように歩き出して、部屋の入口で一度止まる。
「できれば明日が良いのですが、無理であれば近日中に」
言いながらドアを開ける。
「こっちの事をぐだぐだ悩む暇があるくらいなら、いいからとっとと告白しやがれくださいませ。
私の答えはこうしてここに来た時点で決まっておりますから!」
それではおやすみなさい!
そう告げて、メリルはドアを閉めた。
勢いに任せてとんでもねぇ事口走っちゃったなぁ……一生懸命淑女っぽく振舞おうと思ったけど最後の最後で淑女の仮面粉砕しちゃったやあっはっは。
とか思いながら、メリルは顔を真っ赤にさせて自分に与えられた部屋に戻るのであった。
言うまでもない事だが、この後ブレイブンは改めて告白するしメリルの返事は決まりきっているし、ブレイブンの妻として恥ずかしくないように厳しいレッスンを受けて成長していき、ブレイブン好みの女性へと育ち――社交界きってのおしどり夫婦と称されるのは、もう少し先の話である。