90.離婚の危機
それにしても、ナツキさんが帰ってこない。
外の空気を吸いにいくと言ってから、既に一時間弱は経とうとしている。
ちなみにそんな妻の帰りを待っている俺だが、相変わらずシージェン最高級の旅館のベッドに寝転がって、特に何かをする訳でもなくゴロゴロとしている。
最近は連戦続きだったからな、こういう時間は久しぶりだ。
………え?妻が心配じゃないのかって?
大好きな妻が襲われてたら、どうするんだって?
おいおい、単純に考えて、あの人は俺の80倍ぐらい強いんだよ?
仮にナツキさんがピンチになっていたとしたら、このシージェンの街の半分が炎の海になっているはずだ。
だから俺の予想としては、おそらく今のナツキさんは道に迷っている!
大方そんな所だろう。
とりあえず、あと10分経っても近くに魔力を感じなかったら、部屋の外にでも探しにいく事にしよう。
きっと彼女は、道に迷った事を認めないだろう。頑固だからね。
でもその頑固さも魅力的だ。
ふぅ、それではあと10分だけ目を閉じてゆっくりと………。
◇
ん?太ももが温かい?
いや、温かいどころか、なんかマッサージされてる?
あぁ、どうやら俺は眠ってしまっていたようだ。
まさかナツキさんの”積極的なアプローチ”によって目が覚めるとは。
それにしても、いきなり太もものマッサージで俺を目覚めさせるなんて、ナツキさんはどれだけ欲求不満な、、、
「……………え、え?」
俺はそっと目を開いたと同時に、絶句した。
俺の太ももをマッサージしている温かい手。
てっきり俺が寝ている間に帰ってきたナツキさんが、俺の体を触っているモノだと勘違いしていた。
だけど冷静に考えれば、ナツキさんは突然そんな事をするような女性ではない。
俺の知っているナツキさんは、そんな痴女まがいな事をしない。
「あら、目が覚めたの?じゃあもっと”激しい事”、しちゃう?」
「……………いや誰ぇ!?!?」
思わず俺は声を荒げていた。
だって知らない女が勝手に部屋に入って、勝手に俺の太ももをマッサージしていたんだよ!?
こんなの、叫ばずにはいられないでしょ!?
ましてや、こんな場面をナツキさんに見られてしまったら、いよいよ俺の人生の全てが終わる!
ヤバいヤバいヤバい………!死にたくないッッ!!
「は、離れてくださいっ!こんなサービス、頼んでないんですけど!?」
「あら、釣れないのね。こんな美女が、タダで気持ちいい事をしてあげるっていうのに」
「や、やめてくれ……ッ!!心が揺れる……ッ!!」
いや、揺れちゃダメだろ。死にたいのか俺?
冷静になれ。俺の妻を超える女性なんて存在しない。
そうだ、その通りだ!俺は精神が強いぞサン・ベネット!
………でも確かにこの女性、とんでもなく美人だ。
ていうか頭から二本のツノが生えてるし、完全に龍族のようだな。
髪は鮮やかな紫色で、ヒザまで届きそうなほどの長髪。
まるで髪の毛一本一本が生きているかのように、強く生き生きと輝いている。
そして黒いノースリーブのタートルネックの上には、着崩した着物。
その着物は、肩どころか太ももまで丸見えの、おそらく着付師が見たら気を失うほどの斬新な着こなしだった。
まさに”色欲”が擬人化したかのような、艶やかな女性。
正直、俺が独身だったら危なかっただろう。
いや、そう考えてる時点で大分危ないか………。
少なくとも、ナツキさんとは違った、全く別の色気を感じさせる佇まいだった。
「ほら、せっかくアタシが癒してあげるんだ。そのまま寝てなさい、スグに終わるよ」
「ナニがですか!?ナニを終わらせるんですかッッ!?」
「そんなの決まってるじゃないか。アンタが気持ちよくなって、スッッキリする事だよ」
「ダダ、ダメですダメですっ!!俺には一生を捧げると決めた大事な妻が………」
だがこの女性、見た目の細さとは裏腹に、かなり腕の力が強かった。
なにせ俺が本気で逃げようとしても、それを片手で掴んで押さえてくるのだ。
あぁ、そうか。そりゃそうだ。
この人は頭からツノが生えている、すなわち龍族の血筋なのだ。
腕力が強いのなんて、当たり前すぎる話だったのだ。
ヤバい、本当にヤバい。
俺の意志とは全く関係なく、股間が結婚後最大の危機を迎えようとしている!
マジで本格的に魔力による肉体強化をしないと、色々と終わるかもしれない。
そもそも何で頼んでもないのに、こんな最高級の女性を用意したんだ穿天の野郎!!
俺が妻と一緒にいる事なんて、分かってたはずだろ!?
「さぁぁ~!!お姉さんがスンゴイ気持ちいい体験をさせてあげるからねぇ?ほら、早く力を抜いて、全てを抜いちゃって!」
「やめ、や、やめ、ちょ、ホントに………誰か助けてぇぇええ!!」
とうとう俺は、子供のような情けない声で助けを求めていた。
だが紫髪の女性は、相変わらず途轍もない腕力で俺を押さえつける。
そして何の躊躇も無く、とうとう俺の服を………。
◇
「どうしたサンッ、敵襲かっっ!?」
突如”バタンッ”と開いた部屋の扉の先にいたのは、紛れもないナツキさんだった。
額には汗が滲んでおり、俺の危機を察知して飛んできてくれたらしい。
だが残念ながら今の俺は、”誤解しか生まない状況”に巻き込まれている。
なにせ背の高い妖艶な女性に、ベッドの上で服を脱がされそうになっているのだから。
「あっ、ナイスタイミングですナツキさん!この人が勝手に………」
「邪魔して済まなかったなサン。遺言を考えながら楽しむといい」
そう言い残したナツキさんは、開いたばかりのドアを勢いよく閉めていた。
それはもう、躊躇なく閉めていた。
その閉まった時の大きなドアの音は、その後も5年ほど耳に残るようなトラウマになると、その時の俺はまだ知らない。
「完全に誤解です!!た、たた………助けてナツキさぁああああん!!!!」