ごめんよ、マイケル。
“マイケル・ジャクソン(1958年8月29日生まれ、 2009年6月25日没)は、アメリカ合衆国の歌手、ソングライター、ダンサーである。『キング・オブ・ポップ』として知られ、人類史上最も成功したエンターテイナーとしてギネスブックに登録されている。全世界でのレコード売り上げは5億枚以上で──”
次の講義までの間、時間を持てあましていた僕は、食堂でお茶を飲みながらパソコンでマイケル・ジャクソンについて調べていた。特に理由はない。昨晩ラジオを聴いていたらマイケルの曲が流れていたのをふと思い出して、調べてみたくなっただけだ。
マイケルの訃報が流れたのは僕が小学生の時だったと思う。そして彼が現役バリバリで活躍していたのは僕が生まれるより前の話だった。ネットにはそう書いてある。
しかしそんな彼の音楽を僕はいくつか聴いたことがあるし、ゾンビと踊る姿や、ステージ上でのムーンウォークに、床に倒れてしまうんじゃないかってくらい急な角度の前傾姿勢になって、そこから戻る映像も見たことがある。
たいしたものだ、と何だか上から目線な感想が出てしまった。マイケルがはやっていた時期より後に生まれた僕が、彼の存在を知っているのだから。それだけ彼が偉大だということの、何よりの証明だ。
イヤホンにつないだ携帯でマイケルの曲を流しながら、パソコンの画面を眺める。僕はマイケルに関して特別詳しいわけではないので、知らない曲もいくつか出てきたが、どれもすぐに耳に馴染んで、覚えてしまうくらい良い曲だった。思わず曲のリズムに合わせて身体を揺らしてしまった。
マイケルに関する記事を読んで「天才だ」と思ったことがいくつかある。アルバムを一枚作るために60曲以上もの曲を書いて準備して、そのうち33曲を3枚のレコードにして出そうしたという話を読んだ時は、それだけで気が遠くなりそうになった。小学校のリコーダーの授業すらまともにこなせなかった僕からしたら、一曲書けるだけで凄いことなのに、それを30、60だ。結局プロデューサーに反対されて一枚のレコードに入るように曲数を絞ったようだけれど、マイケルがひとつのアルバムを作るためにそれだけの曲を書いていたという事実は変わらない。
そしてまいった、と思ったのが名曲『ビリー・ジーン』の制作秘話だった。あの曲には長いイントロがあるのだけれど、こんな曲に入るまでが長いイントロ、レコードをラジオでかけてもらえなくなるぞと周りが反対するとマイケルは「これが僕を踊りたい気持ちにさせてくれるんだ」と言って、それだけでプロデューサーを納得させてしまったという。敵わない。僕だってマイケルにそう言われたら黙ってしまうしかないだろう。
だけれどそんな天才マイケルの人生には常に、影が付き纏ったという。子どもの頃から毎日のようにステージに立ち、歌って踊っていた彼は父親からの厳しい指導、というよりほとんど虐待を受けていたそうだ。踊りの振り付けを間違えたらムチで打たれ、特徴的な大きい鼻をあげつらって罵倒された。
大人になって、子ども時代以上のスーパースターになってからもマイケルの受難は続いた。アフリカに先祖を持つ彼の肌は、色素が抜けてしまう病気を持っていたのだ。どういうことかというと、黒い肌から色が抜けて、徐々に白くなっていってしまうのだ。
最初はメイクで隠していたけれど、歳をとったり、CMの撮影中に頭を大火傷したことが原因となって病はさらに進行し、ついに誤魔化しが効かなくなってしまった。『スリラー』のジャケットで黒人の好青年として写っていた彼は5年後の次のアルバム、『バッド』のジャケットでは白人の男性になっていた。もともと鼻の形などの整形をしていたマイケルを、世間は整形で肌を白くしたと、彼を笑い物にした。インターネットもない時代だから、病気のことなんて全然知られなかったんだと思う。
でもマイケルにとって一番つらかったことは、子ども時代に学校に通うことが出来なかったことかもしれない。小さい頃からテレビに出て、レコードを出して人気者になっていた彼にまともな学校生活を送れるわけがなかった。授業中に居眠りをして先生に叱られたり、好きな子ができたり、失恋をしたり、クラスメイトや友だちと一緒に毎日を過ごすことも、マイケルにとっては叶わぬ夢だったんだろう。
大人になってから子どもの頃できなかったことをしたいと、マイケルは『ネバーランド』と名付けた広大な自宅の庭に遊園地を作って、そこに子どもたちを招待した。恵まれない子どもたち、難病を抱えて余命いくばくもない子どもたちをネバーランドに招いて、マイケルは彼らと過ごした。ネットの記事を読む限りそれはとても美しいことのように見えるけど、人々は彼を変人だとか、子ども好きの変態だと馬鹿にした。
ある時マイケルは、ネバーランドに招待した子どもの父親に、自分の子どもはマイケルから性的暴行を受けたと訴えられた。証言や証拠はめちゃくちゃで、どう見てもマイケルの財産目当てのでっち上げの訴訟だったのだけれど、メディアがそれを大きく取り上げたことで、小さい頃からマイケルが築き上げた名声や地位は一気に崩れ去った。
なんで裁判をして、無実を証明しなかったんだと思ったけど、捜査のために警察にネバーランドを荒らされて、バレないだろうと屋敷にあったものを盗まれた上、証言に出た身体的特徴と照らし合わせるために身につけていたものを文字通り全て剥がされ、それを写真に撮られるという屈辱を味わったことによる精神的なストレス、さらにそれを抑えるために大火傷した時から使っていた鎮静剤を大量に使って、危険な状態になっていたマイケルにこれから始まるであろう長い裁判に臨めるだけの力は残っていなかった。結局マイケルは、自分を訴えた父親に巨額の示談金を払うことでこの事件を終わらせた。マスコミからは金で事件を揉み消したと糾弾された。
そのあともマイケルはアルバムを出してコンサートツアーもしたけど、これまでと同じような扱いを受けることはなかったんだろう。前に訴えられてから10年ほど経ってマイケルはネバーランドに招待した、また別の子どもの親に訴えられた。今度は民事訴訟ではなく刑事事件。裁判は免れなかった。
数年に及ぶ長い裁判の結果はマイケル側の無罪。彼の潔白は証明されたもののマイケルの心の傷は大きく、それから彼がネバーランドに戻ることはなかった。
だけれど彼の心に宿るエンターテイナーとしての炎は消えてはいなかった。マイケルは再起を賭けたコンサートツアー”THIS IS IT”を計画し、全盛期を支えたスタッフを集め、もう一度世界の注目を集めるためにリハーサルに励んだ。そして、その初日を控えた数週間前に、マイケルは処方された鎮静剤、精神安定剤を大量に服用したことによる副作用でこのこの世を去った。50年の生涯だった。
ここまで読み終えたところでふと、パソコンの画面の片隅にある時刻表示に目を向けた。それをみて僕は「あちゃあ」と声を漏らした。講義はとっくに始まっている時間だった。
どうしようか、と僕はパソコンから目を離して、首を回して伸びをし、あたりを見渡した。一つのテーブルに何人かで集まったグループができている。
友達同士なんだろう、彼らは楽しそうに笑って、はしゃいでいた。本当はよそのテーブルから椅子を持って来ちゃ駄目なはずなのに、彼らはお構いなしに自分のぶんの椅子を取って来て座っていたり、ひとつの椅子にふたりで座る人もいた。窮屈じゃないのか。なんだかおしくらまんじゅうをしているように見える。そういう集団がいくつもあった。
彼らから離れて一人で座っている僕は、よし、と席から立ちあがると、テーブルの上のパソコンやらレポートを書くために読まなきゃいけない参考文献やらを鞄の中に入れて、そのまま食堂から出て帰路についた。これまで無遅刻、無欠席で通してきたんだ。いまさら一回休んだくらいで単位が落ちるなんてことはないだろう。たぶん。
もし僕に友だちがいたら、僕がズル休みをするのを咎めたり、おちょくったり、一緒に休んでくれるやつがいたのかもしれない。いないからこうして、ひとりでマイケルの曲をイヤホンで聴きながら帰っているわけだけど。
昔から僕は人付き合いが苦手だった。学校の休み時間は本を読んで過ごして、家に帰ったら誰を誘ったりもせずひとりで黙々とゲームをしていた。中学校に入ってからは部活をしなければならなかったけど、団体戦のスポーツが嫌だったので、ひとりでできる水泳部に入った。同じ理由で高校でも水泳部に入った。成績は中の下くらいだった。
大学に入って最初の、学部で集まっての飲み会も僕は断った。サークルも中高の部活と違って入る義務がなかったので入らなかったし、どんなサークルがあるのか探しもしなかった。
そんなわけで、大学生活において僕は全くと言っていいほど人付き合いをすることがなくなった。別に後悔しているわけじゃない。ひとりで落ち着いて日々を過ごせるのは、僕に取っては心地いいことだ。
だけれど、さっきマイケル・ジャクソンについて調べたことが、僕の胸の中で鉛のように残っていた。
スーパースターの座を得た代償に、彼は学校に行って同い歳の友だちを作ることができず、大人になってからは自分のお金を狙う汚い大人たちに狙われ、唯一心を許して信頼できる純粋な子どもたちの存在も、彼にとって救いにならないまま、マイケルは死んでいった。
史上最高のエンターテイナーが心の底から欲しがっていたものを、僕は煩わしいものとして、平気でその手から放り出しているのだ。彼の夢だった友だちとの日々、青春、思い出、それらすべてを。
僕はイヤホンを外して、空を見上げた。
「ごめんよ、マイケル」
どこかに向かって、僕は言った。