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歌物語

雨の石段

作者: 夢のもつれ

 あれはいつのことだったろう。読書と言えばマンガにしたってまだ紙だった古い話だ。まだ東京に出てきてしばらくは東池袋の六畳間と小さなキッチンだけの部屋を借りていた。その頃、会社の合コンで知り合った彼と半同棲のような状態になっていた。


 まだ早すぎるって思っていたけれど、それは独り暮らしだからって軽く見られるのがイヤで、でもその寂しさが加速させたんだろうって思う。それは彼も同じで、「三年も独り暮らししてると日が短くなるこの季節はたまらない」って、西の方の出身らしい実感を込めて言っていた。


 二階のあたしの部屋から平屋の家越しに石の階段が見えた。大通りから銭湯のある通りに向かってこの辺りはゆるやかな下りになっていて、そのため車が入りにくく、石段があったりするのだった。銭湯の通りは、昔は川だったのかも知れない。その石段を少し猫背の彼がまっすぐ前を向いて歩いて来るのが見えると、窓際から離れて本でも読んでいるふりをして訪れを待った。


 彼の部屋には最初の頃、何回か行ったことがあるけれど、その度に隣の細い目が吊り上がったような三十過ぎの女が咳払いを立て続けにしたり、家具を動かしたりするような音を立てたりするので、行かなくなった。


 彼の部屋もあたしの部屋も壁の薄い安アパートだったから、夜にあたしが声を上げそうになると口を押さえてもらうことにしていた。お互い言わなかったけれど、それは感覚をより高め、深くて鋭い反応をお互いから引き出していた。


 二人ともおカネがなかったから、休みの日もずっとあたしの部屋にいて、テレビを見たりしていた。ネット配信なんてものももちろんなかった。真夏なのにお昼にカップラーメンを大汗をかいて食べた後、時々テレビを消して耳を澄ます。


 アパートがしんとなっているのを確かめると彼が立ち上がって、ズボンを脱ぐ。膝立ちになって下半身に顔をうずめながら、あたしはクーラーなんかないから開け放った窓の外に目をやる。時季遅れで色あせて形も崩れた紫陽花が見える。飢えた者には、時間は残酷なほどたっぷりと与えられるのだろう。生臭い味とともに蝉時雨が再び聞こえてきた。


 妊娠しては困るとは思っていたけれど、一年以上付き合ってだんだん将来のことを言わなくなった彼を見て、きっかけをつかむような気持ちもあって、「だいじょうぶ」と言う日が増えた。しかし、三年経ってもそんな不都合だか好都合だかは生じず、口を押さえることも、テレビを消すこともないような、彼の言葉で言うと「お勤め」になってしまった。


 何も考えてくれない惰性の塊のような彼に不満がいっぱいだったけど、それは後から考えると意図的にそう見えるようにしていたのだった。用を済ませたら言葉尻を捉えたようなことを言って不機嫌になったり、深夜でも自分の部屋に帰ったり、半年もかけて徐々に「もう終わりかな」という気分を作り上げていた。その一方で、お見合い相手とのお付き合いを続けていたと知って、びっくりもし、悲しくもなったが、なかなかしっかりしてるじゃないのって姉のような気分もあった。


 彼がその時期を選んだのは考えてみれば当然なんだけれど、クリスマスのひと月くらい前に関係が終わったのはつらかった。それまではお揃いのダウンジャケットを着て、池袋のサンシャイン通りをあっちのカップルは不釣合いだとか、こっちの男は十年経っても独りのクリスマスだろうとか、散々悪口を言いながら歩いていたのが自分に降りかかってきたように思え、にぎやかなところへは行きたくなくなった。


 まだ十一月の終わり、仕事で遅くなった夜に冷たい雨が降った。飲み会に誘われたが、六本木なんてとても行く気がしないので、断って残業した。地下鉄の駅を出ても傘もない。まつ毛にかかる雨は氷混じりだった。どうしても合わない伝票の整理と身を切るような木枯らしが頭も体もこわばらせていた。古ぼけたパン屋さんの灯りがあたたかに見えるけれど、ここで小さなケーキとシャンメリーを買って、あたしの部屋で一緒にクリスマスを迎えたことを思い出してしまう。……家の近所のあちこちに彼との思い出があって、冷たくなった手のようにあたしの心に触れてくる。


 そんなことばかり考えているから、よけい運の悪いことになってしまう。ぼんやり歩いていたら、あの石段のところですべってころんでしまった。膝小僧を擦りむくなんて小学生のとき以来のような気がする。破れたストッキングから黒い土が混じった血が見え、視界が涙でにじんでいく。いつまでも雨に濡れているわけにもいかない。立ち上がろうとして、自分の部屋の窓に目をやると暗い女の姿が映っていた。……


 今は会社の三年先輩と結婚し、子どもも二人でき、幸せと言っていいような平凡な生活をあざみ野で送っている。目が吊り上がったようにならなかっただけいいのだろう。今日、子どもたちと一緒にクリスマス・ツリーを飾った。


「クリスマス楽しみだね」と下の子が言うのに、「サンタさんには何をお願いしたの?」と去年と同じように尋ねながら、この前、東池袋に行ったことを思い出していた。近くに用事があっただけだからと自分に言い訳しながら、引っ越してから初めて行ってみると辺りは瓦礫の山で、ベニヤ板で入り口が閉ざされた銭湯までからりと見渡せた。


 高層マンションでも建つのだろう、アパートも何もかもうずもれてしまった中で、石段の上の方だけが残っている。なぜここに来てしまったのだろう。振り仰ぐと広くなった空に雨雲が広がっていく。早く多摩川の向こうに帰れと言われているような気がした。



  ひとり聞くむなしきはしに雨落ちて

  わが来し道をうづむ木枯らし

    藤原定家


和歌について簡単に。「ひとり聞く」って何を聞いているかと言うと、雨の音だけじゃなく木枯らしも含まれていると解した方が思います。

この歌は山道を描いているので、はしははしごという意味でしょう。

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