ep1-8
夜がものすごく長く感じる。
日中、追いかけられるように過ごす日々と同じ時間が過ぎているとはとても思えないほどの、緩慢とした時間。
暗闇に閉ざされた見慣れた自分の部屋で、時計の針がかちかちと僅かに時を刻んでいるのが聞こえる。
(長い…)
冴え渡った意識はまどろむ闇へと私を落としていってはくれない。
何度目かの夜を超えて、私はやはりいつもの通学路を行っていた。
ようやく学校に辿り着く。
遅刻寸前の閑散とした通学路かと思ったら、辺りには生徒が溢れかえっており腕時計を見れば今がちょうど登校のピークだった。
私も何食わぬ顔をして流れに入る。学校までの列はそんな私を何の違和感なく迎え入れる。
あまりにもそれが自然すぎて逆に私には不自然余りあるほどに感じ、この光景さえもどこか欺瞞にあふれるものに感じてしまった。
昇降口で靴を履き替え教室へと向かう。
階段を登り、廊下を行く。
その途中で、二人の男女を見かけた。もちろん制服を着ているからうちの生徒。
ただ視界に入っただけで自分とは何の関係もないことは言うまでもなく、私は廊下を歩むスピードを緩めることなく進んでいく。
彼女たちからは私の背しか見えない。私にも視界には入らないはず。……なのに私の視界の隅が、彼女たちを追う。やめろって、意識が叫んでるのに。
すれ違う瞬間、二人がどこか思わせぶりな笑顔を一瞬浮かべていたのが目に入っていた。
そしてそのまますぐ近くにあった教室の扉に凭れかかるようにしたと思ったら、あっという間に吸い込まれていくように中へと消えていった――
見たくないものでも、意識したくなくても、目をそむけているつもりでも、勝手にその瞬間というのは目に飛び込み脳に伝わる。
私はもうとっくに通り過ぎているその地点で見た光景を、必死に頭を振って追い出そうとする。その教室は資料を保管しておくのみの一日中カーテンで閉め切られている暗室だ……。
「……………………うっ」
喉を這い上ってくる何かに咄嗟に口元に手を添える。気持ち悪い……。
何をする気なの? 朝っぱらから、そんなところで……。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっ――
「あ……」
足もとがふらつく、と思ったら私の視界は既に白く霞んでいて、改めて足がぐらつく。渦が頭の中に巻き起こり、真っ直ぐ立ってられない。
さながらそれは千鳥足のようで。でも決定的に違うのは首から上が自分でもわかるほど寒いぐらいに冷たかった。
「あぅ」
ぐあんぐあんする……。目の前の光景が、すべて歪んでみえる。重力が右に左にひっくり返ったようで、私はそれに振り回されどこか正常な位置なのかさえもわからない。きっと、私は今の状態を聞かれたら医者にそう答えるだろう。
「大丈夫?」
…………。今、何か聞こえた?
聞こえた気がするけど、あまりにも遠くてそれが私なのかどうか。
「間堂さん」
それは、私の名前だ。聞こえたらしい方向である後ろに振り向いてみる。
「大丈夫?間堂さん」
「…………………委員長」
「顔、真っ青よ」
朦朧とする頭が、すぐに彼女の存在を理解させてくれなかった。何せ私の目にはまだ彼女は白い霞の中にいる。
「貧血? 保健室行く?」
何なのよ、一体……。同じセリフなのに、この前の時とはまるで違う。
心底心配してるような口調と目の前の覗き込む顔に、私は気のせいだとしても余計に気分が悪くなる気がした。
「…………大丈夫」
「そう? 授業始まるまで、ベッドで休ませてもらったら?」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
優しくしないで。
キッと、睨みつけた。
「そう? …………」
まだ腑に落ちないようだったけど、それでも納得してくれる。(あんた、誰よ……)
(不敵な笑みを浮かべて遠くで嘲笑している方がよっぽど『らしい』)
徐々にしっかりしてくる意識。私の腕には、彼女の手が添えられていたらしい。今はゆっくりと離れていくところだった。
……きれいな手。何の罪も知らないかのような。穢れなき白く美しい手。けれど本当は、真実は――
この人は、私の知ってることの半分でも、はたして知ってるんだろうか。
「無理はしないでね」
髪は長くて艶やかで。同学年に見られるような子供っぽさのない、洗練された頼りがいのある、生徒。大人からも、生徒からも評判のいい、そんな美人な少女。
「えぇ」
もし私が、彼女と何もありもしなかったなら、
私とは生きる世界が違う。そう思いいらつきもしただろう。
こんな人もいるんだなと、どこかで安心もさせてくれる人だったかもしれない。
けど違う。今は違う。
「猫、……かぶってるんじゃないわよ」
ぽつりと呟いた言葉の後、場がシンと静まる。
何も言い返してこない牧瀬莉緒――委員長。どうでもいい。今度は頭が割れるように痛い……。
(猫、かぶってるんじゃない)
それって、相手に言い放った言葉にも聞こえるけど、私自身に対して言ったようにも、聞こえるよね――
今だに何にも言い返してこない。なのにまだ目の前にいるらしい。不気味。
「あっ…ち、行って……よ……っ」
口が勝手に動く中、目の前の影が動いたのがわかった。