幼女外伝 幼女マジ神
バスに乗り、列車を乗り継いで空港にやって来た二人は次の国へ向かうために紅白の専用機に乗り込んだ。
それなりに立派なプライベートジェットだ。
警官「プライベートジェットは初めて乗るよ」
相棒「俺もだ」
警官「どうして、わざわざこれを手配した?」
相棒「これから行くところは危険地帯なんだ。国の許可が下りないと立ち入れないほどに」
警官はリンゴジュースをゴクリと飲んだ。
男はクルミパンをかじって外を見つめる。
警官「何が危険なんだ?」
飛行機が走り出した。飛び立つ。
もう後戻りは出来ない。
警官「答えてくれ」
相棒「厳重に隔離された都市レゼルボア」
警官「隔離……都市?」
相棒「かつて耀星の国に惚ウィルスが蔓延した時、幼女と感染者をその都市に隔離したんだ。一人っ子政策と同じくらい、人生を強制される悲しい出来事だ」
警官「ノロウィルスと言えば酷い風邪のことだろう。隔離までするほどなのか」
相棒「風邪じゃない。惚は惚けるのノロだ」
警官「まさか幼女が感染源なのか!」
相棒「幼女の魅力に熱を上げてトキメキに逆上せる。このことをウィルス感染に例えて惚ウィルスと名付けられた。ややこしいのは名付け親に文句言ってくれ、誰かは知らんがな」
警官「もっと詳しく教えてくれ」
相棒「そのつもりだ」
男は惚ウィルスについて恐れることなく説明をはじめた。
昔の彼なら怯えを隠せなかったかも知れない。
相棒「惚ウィルスは幼女と接触、幼女を視認、幼女の声を聞くことで感染する。幸いにも幼女の匂いで感染することはない。しかし、人伝いに幼女の魅力を聞いたり、ネットで画像を見てしまっても感染する恐れがある」
警官「予防が難しすぎるぞ」
相棒「だから隔離して、情報統制を急いだ。迅速な対処のおかげで、被害は最小に抑えられたと思う」
警官「それで、どんな症状が出る?」
相棒「主な症状は三つだ。胸の動悸が治まらない。幼女を強く求めてしまう。生活が困難になるほど意識が朦朧とする。そして最悪、キュン死にする」
警官「それじゃあ、幼女の身も狙われて危険じゃないか」
相棒「だから非感染者と感染者を分けるだけでなく、都市では幼女とそうでない者を分け隔てた。行けば分かるだろう。移動式の柵があちこちにあるらしい」
警官「今は」
そこまで言ってリンゴジュースを飲んだ。
それから震える手で騒がしくパンとサラダを平らげた。
男は警官の食事が終わるのを黙って待った。
警官は最後にリンゴジュースを一息に飲み干して言葉を再開した。
警官「今はどうなっている?」
警官は肩を竦めて怯えていた。
まるで寒いみたいに悴んでいる。
一息に飲み干したとき、恐れのあまりむせて、鼻からリンゴジュースが垂れ流しになっている。
相棒「治療が進んで、都市が解放されるまでに至った。さっき言ったように、外部から立ち入るには許可がいる」
警官「良かったあ……」
警官は鼻をかんで花やかに喜んだ。
ところが男の顔は険しいままだ。
不安を察知して、警官は次の言葉に備えた。
相棒「実のところ一部が隔離されたままになっている。俺達は」
警官「そこへ行くの……?」びくっ
相棒「そこへ行く」
警官は備えられていた袋に胃の中にあったアレコレを一気に吐いてしまった。
相棒「おいおい大丈夫か!」
警官「キュン死にはしたくない!」
相棒「落ち着け。キュン死にすることは多分ない」
警官「助かるのならその方法を教えてくれ」
相棒「幼女ワクチンだ」
警官「は?」
相棒「幼女の写真をチラ見して耐性をつける。俺達が、過去に幾度となく幼女対策に用いた方法だ」
警官「それでもだ。もし感染したらどうなる」
ゲロ臭いまま迫る警官を押し戻し、何とかなだめて話を続ける。
相棒「とにかく落ち着いてくさい!」
警官「すまない。後で歯磨きする」
相棒「治療法もあるにはある。幼女ワクチン、そして幼女療法、両方の鍵となるのがシャーマン幼女だ」
警官「シャーマン幼女!そんな幼女まで世界にはいるのか!」
相棒「驚くことに彼女の魅技で、患者たちは次々と恋病から一気に快方した」
警官「恋病を一気に、それも一人でか」
相棒「そうだ。録画した映像を患者に観せると惚ウィルスが消滅して症状が治まったと云われる」
警官「たしか、幼女の魅力を幼女の魅力で相殺する例は瑞穂の国でもあったな。そうだろう」
相棒「何度もあった」
警官「あれと同じ原理か」
相棒「そうらしい。最近までは魅力の衝突による対消滅だけが原因と思われていたんだが、博士が改めて言うにはそれだけじゃない。量子もつれ、ならぬ、幼女もつれによるトキメキテレポーテーションも一因だそうだ」
警官「かの有名なオパンティヌス博士が言うならば信用できる話だ。聞こう。それは何だ」
相棒「幼女もつれとは、魅了された人のトキメキを記憶した細胞と幼女の覚醒細胞が、どんなに離れていようと瞬時に同期することだ」
警官「するとどうなる」
相棒「トキメキテレポーテーションが起こることで、トキメキのほとんどが幼女に回帰するらしい」
警官「それってもしかして、幼女に愛を返すのと似たようなものか」
相棒「そういうことらしい。証明はしようもないがな。俺にこれ以上問われても、難しい話が嫌いだからさっぱり分からないぞ」
警官「ふむ、まあ大体分かった。次に肝心の動画は持っているのか?」
相棒「ない。綺麗に隠滅された」
男はパパッと操作してミニフォンから一枚の画像を、安心して間抜けな顔した警官のミニフォンへと送る。
相棒「油断するな。まずはチラ見しろ。また吐くかも知れない」
警官「俺は君みたいに場数を踏んでいない。写真とはいえ、いきなりチラ見というのはちょっと」
相棒「だからと言って、他にどうしようもないだろう」
警官「そうだな。俺としたことが情けない。弱気になってはいけないな」
相棒「そうだ。病は気からだぞ」
警官はチラ見した直後、手首を下から上へと軽く振ってミニフォンを投げた。
それは縦に回転しながら向かいに座っていた男の顔を横切って窓にぶつかった。
相棒「お前危ないだろう!顔に当たったらどうする!窓が割れたらどうする!」バクバク
警官「シチュエーションを考えろよ!なぜその写真を選ぶ!顔写真にしろよ!いや、せめてモンタージュ写真にしてくれよ!」ドキドキ
相棒「モンタージュ写真て何だ!仕方ないだろう!ある程度の魅力がないと意味がない!」
警官「あーもう!胸がちょードキドキするじゃん!」
相棒「お前まさか……感染……してないよな?」ぴくっ
警官「写真だけでも感染するんだったな」
相棒「だからチラ見によるワクチン投与を試したんだが」
警官「チラ見だから平気なんだろう?」
相棒「他人に試したのは初めてだ」
警官「何てことするんだよ!」
相棒「だから仕方ないだろう!お前のことを考えて考えたことだ!」
警官「感染したくない感染したくない感染したくない」ぷるぷる
相棒「ならサングラスをかけてチラ見しろ」
男はミニフォンを投げ返して言った。
警官はキャッチして、サングラスを掛けて再度チラ見に挑戦する。
画面の奥で、地面につきそうなくらい髪が長く顔に特徴的なメイクでおめかしたシャーマン幼女が、彼女と変わらない身長の幼児を抱いている。
ブルーライトと同じで魅力はカット出来ないんじゃないかと心に不安が過る。
相棒「幼女が姉のミト、幼児は弟のコンドリオンだ」
その関係性から魅力がぐんと高まった。
それでも負けまいという心意気でシャーマン幼女を視界の端に捉えてみる。
あ、何だかいけそうな気がする。
警官「いい調子かも」
相棒「よし。向こうに着くまで続けるんだぞ」
警官「なあ、このサングラスを見るとピビを思い出すんだ」
相棒「彼女から貰った物だもんな」
警官「俺、頑張るよ」
決意した警官は飛行機での移動中、絶えずシャーマン幼女をチラ見し続けた。
食事中も武術トレーニング中もトイレの時も歯磨きする時も寝る前にもだ。
そうして一夜明けると、サングラス越しではあるがガン見出来るようにまでなった。
シャーマン幼女の顔をズームしても、平気に耐えられる。
相棒「きっと和平ちゃんのおかげだろう。会いたいな」
警官「ああ、会いたいな。せっかく和平ちゃんが鍛えてくれたんだ。今日はサングラスを外して頑張ってみる」
相棒「空港に着いたらクルーザーに乗り換える。そこで試そう」
日が傾く頃、自然豊かな耀星の国へと到着した。
ここはレトロチック大陸で陸続きになっている国の一つで、池と海に挟まれた珍しい国だ。
大華の国よりも日差しが優しく、海に面した空港には涼しい風が吹いてきている。
潮の香りが懐かしくて何より嬉しかった。
男はとても居心地のいいところだと感じた。
空港から車で港へと送ってもらい、クルーザーで遠くに見える島を目指す。
盛り上がる緑を突き破ってそびえるコンクリート群、あれが隔離都市レゼルボアだ。
船を出してくれた恰幅の良い船乗りの親父が当然の疑問を口にする。
船乗り「紅白の人間がなぜ今さらレゼルボアへ行く。それも瑞穂の国の人間がだ」
無線イヤフォンで拾った外国語がミニフォンの通訳機で馴染みのある言葉へと変わり、男の耳へと戻る。
技術の進歩により、あっという間の出来事だった。
相棒「俺達にはY細胞がない。だから、一か八かの賭けに行くんです」
船乗りは突き出されたミニフォンの画面を覗き込むと、海の男らしく豪快に笑った。
船乗り「それは荒治療になるな」
相棒「シャーマンの幼女がいるというのは本当ですか」
船乗り「なるほど。ミトちゃんに会いに行こうってわけだ。ああ。よく知っている。なにせ俺は彼女のファンだからな」
相棒「ファン?あなたはもしや、惚ウィルスの感染者だったんですか?」
船乗り「あの子に惚れて、でも、あの子が治してくれて、また惚れ直した」
相棒「やはりミトちゃんも感染源だったか」
船乗り「あの都市にはフランポワーズという有名な医者の一家がいてな。その人らがミトちゃんと協力して惚ウィルスの感染源は消えた。ミトちゃん、ただ一人を除いてな」
相棒「一人だけ隔離されたままなんて可哀想に。でも、ほとんどの人にY細胞がある今は問題ないのでは?」
船乗り「その通りだ。隔離もようやく終わったところで、もうすぐで自由になれるって話だ」
相棒「それは良かった」ほっ
船乗り「しかし、Y細胞のないあんたらには危険に変わりない」
相棒「危険は承知です。今までだって」
男は船乗りの親父に真剣な眼差しを向けて覚悟を伝えた。
船乗りの親父は気掛かりでも頷くしかなかった。
船乗り「そうか。まあ、うまくやんな」
相棒「はい」
船乗り「ミトちゃんは奇跡を起こした女神様だ。きっと、あんたらにも奇跡を授けてくれるだろう」
警官「俺は奇跡が大好きだ。俺はミトちゃんを信じる。会えるのが楽しみだ」にっ
警官はサングラスもかけずミトちゃんの写真をガン見している。
彼の目に燃える覚悟も真剣だ。
船乗り「気を付けてな。幸運を祈る」
相棒「ありがとう。お世話になりました」
クルーザーが水平線に浮かぶ雲のなかへ消えても、二人は並び立ち、グラスに注がれたオレンジソーダのような光が弾ける海原を眺めていた。
背中越しに子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
波のメロディーに乗せた歌のようだ。
相棒「和平ちゃんたちの歌は良かったな」
警官「まるで遠い昔のように感じる」
相棒「友達になれるだろうか」
警官「機内で見たプロフィールには無口で大人しい子と書かれていた。が、交渉が必要となれば難しいだろう」
相棒「交渉は苦手だ。その場合は任せていいか」
警官「いいだろう。適材適所で助け合っていこう」
夕日に去らば。
男たちは汗ばんだ顔に不敵な笑みを浮かべて戦いに臨む。
相棒「行くぞ」
警官「ああ。やってやろう」
都市はコンクリートジャングル、その言葉のままだった。
地面は剥き出しの土、道には多様な植物が繁茂、それら自然を出来る限りに残して、高低差も構わず地形に合わせて不規則にコンクリートビルが建っている。
幼女とシャーマンの集められたこの都市だからこそ、自然こそ最も敬愛されている。
草、花、木、どれにも精霊は宿っていて、植物もシャーマンとして扱われている。
その印に、彼らを尊信して子羊の羊毛を丸めたものが結ばれている。
なぜ子羊の羊毛か、それはこの国で熱心に信仰されている宗教に由来する。
警官「瑞穂の国と似た考えだな」
相棒「え?」
男は駆け回る子供たちに気を付けているが、警官は風に揺られる木の葉を呑気に見上げて器用に歩いている。
警官「自然万物に精霊が宿るという考えだよ。我々の国では自然万物に神様が宿るというじゃないか」
相棒「お菊さんがそうだな」
警官「噂の甘菊神社の神様か」
相棒「本人はまだ見習いだと言うけれど」
警官「実在するのか?」
相棒「なんだ。見たことないのか」
警官「ない」
相棒「見なくて、や、出会わなくて正解だ。彼女は悪戯に萌を振り撒くからな」
警官「想像するだけで胸がトクンと高鳴る。よく無事でいられたものだ」
相棒「無事じゃない。死に物狂いで苦労した。だが、味方になれば頼れる存在だ」
警官「へえ」
相棒「そんな彼女と約束した。一生を懸けてカスタードシュークリームを捧げると」
警官「果たすつもりか」
相棒「そのつもりだが……」
警官「だが……?」
相棒「カスタードシュークリームだけに拘らず色んなスウィーツを捧げてやる」にやり
警官「ふ、生真面目と言うかお人好しと言うか、まあ律儀なことだ」
相棒「がむしゃらに幼女を愛しているだけだ」
警官「いてっ」
相棒「そろそろ前を見て歩いたらどうだ」
警官は顔をぶつけた木を撫でながら言葉の意味を深く考えた。
前を向いて歩く。
前を、向いて歩く。
前を、向いて、歩く。
このまま警察官として生きていくか、それとも別の生き方を決めるか。
視線は葉から枝に移ろい、幹にぶつかり今は根を見ている。
彼は過去を顧みていた。
人を輝かせる奇跡になりたくて警察官を選んだ。
しかし、あらためて考えてみれば随分と自分勝手にも思える。
警察官の仕事は人を輝かせるだけには限らない。
この漠然とした夢と曖昧な理想は若さ故の過ちと言えよう。
さて、それならば大人になった現在はどうしよう。
人生の振り出しに戻ったみたいだ。
きっかけは思い出せないけれど、奇跡に夢を見た幼い自分に戻る。
警察官になろうと思ったのは中学生になって、テレビで伝えられるヒーロー像に憧れたから。
現在は、誰に憧れる。
相棒「どうしたボッーとして……そんなまさか!」
警官「惚ウィルスにかかっちゃいない。少し考え事をしていた」
相棒「大丈夫か?」
警官「自信に満ちている。気分は上々だ」
相棒「無理はするな」
警官「分かっているよ」
目的地には目印の男がいた。
ビルの入り口の脇にビニール製のリクライニングチェアーを置いて、そこに仰向けになって酒瓶をラッパのみしている恰幅の良い神父がいる。
リクライニングチェアーには「BASU」と潰れた字で書かれたプラカードが立て掛けてある。
警官「船乗りの親父は神父だったのか?」
相棒「分からん。何が起こっているんだ」
神父が二人に気付いた。
酒瓶を置いて、満面の笑みで駆け寄る。
神父「あんたボスやろう!すぐ分かったわ!地元で見ん顔やもん!」
神父は男の手を握り上下に激しく振った。
男は戸惑うばかりだ。
警官「頭が痛い。もしや幼女が仕掛けた幻影かも知れないぞ」
相棒「なに?試されていると言うのか」
神父「わしはここにおるで。瑞穂の国には毎年バカンスで長いこと行くねん。この喋りはあんま気にせんといて」
相棒「分かった。もう一つ疑問がある」
神父「なに?何でも聞いて」
幼女の十二分の一くらいの無邪気な笑みは緊張を程よくほぐしてくれた。
黒ずんだ歯が酒で、てかてか光っている。
相棒「ついさっき、あんたに似た男にクルーザーで送ってもらった」
神父「あれ兄ちゃんや。わしが迎えるよう頼んだんや」
相棒「ああ、そうだったのか。でも何も言わなかったぞ」
神父「わしは神父で、あいつは船乗りで、お互いに自由に生きてる。そしたら合わんもんもあんねん」
相棒「踏み込んで悪かった」
神父「ほないこか!」
神父のハイテションに呆気に取られる二人は顔を見合わせて、やれやれという風に両肩を上げた。
神父「ここや」
ビルに入ってすぐ、エレベーターに乗って最上階になる六階へ移動した。
一階のエントランスと違い、廊下は床から壁まで木の板が隙間なく貼られていた。
神父「シャーマンは精霊さんと共存して自然と共栄するんやで」
警官「この板には精霊はいないのか」
神父「精霊さんに許しを貰った木やからおらん。出てった」
警官「神父さんも精霊を信じているのか」
神父「信じとる。マートン神教の信者もシャーマンも仲間やさかいな」
警官「マートン神教?」
神父「説明めんどいから後でボスに聞いて」
相棒「おいおい。調べはしたが、関係があるとは知らなかったぞ」
神父「神の子が精霊や。これでええな」
廊下の突き当たり、木製のドアのノブに手をかけて神父はニカッと笑う。
神父「気張りや。ミトちゃんとご対面や」
ふと、ノブを捻る手を止めた。
神父「言い忘れとった。わしの名前はガリミムスや。言いにくいやろしガリーでええよ。ちなみに弟はスコミムスやで。ま、とにかく今日からよろしくな!」
ようやくドアが開かれる。
すると、おじさん達の侵入を拒むような強風が吹いてきた。
芳しくも甘い匂いがする煙が混ざっている。
目を凝らすと、扇風機の前に、鼻からもくもくと煙を噴出する羊を模した香炉があった。
それから視線を恐る恐る隣へ移すと、木を編んで作られた椅子に深くお座りした幼女が二人を待ち構えていた。
メーキャップされた顔に表情はなく、感情がまったく読めない。
吸い込まれそうな蒼い瞳から危険な雰囲気を感じた二人は目を逸らした。
そうして尻込みするおじさん達の尻を叩いてドアが強制的に閉じられた。
聞き間違えであってほしい。
カチャリ……鍵が閉まる音がした。
神父「指紋認証のオートロックやねん。すごない?」
相棒「黙ってくれ。ミトちゃんの不思議な魅力に参りそうなんだ」
神父「あー。基本的に無表情やけどええ子やで」
相棒「ここからは通訳に努めてくれ。いいな」
神父「ええで」
幼女が動じず言葉を発する。
鈴のような凛と澄ました音色だ。
ミト「ヴェルディモーテ」
錯覚だろうか。瞬きすらない。
神父「挨拶や」
おじさん二人はヴェルディモーテした。
神父「あの扇風機は風を起こすためにある。外界から来たボスらが連れてきた邪な風を吹き飛ばすために用意したんや。まあ風邪対策っちゅうことや。やから悪く思わんでな、そういうもんなんや、分かってな」
幼女は、幼女に対しては大きすぎる椅子から、ぴょこんと飛び降りると、おもむろに扇風機のスイッチを切って、スカートを翻しながら二人に向き直った。
彼女は琥珀を繋げたブレスレットを身に付け、黒を基調として彩色を散りばめた鮮やかなメイド服のような民族衣装を着ていた。
光沢のある茶色い後ろ髪が地面スレスレで一文字に綺麗にカットされているのも特徴的だ。
男は勇気を奮い、その全貌を明瞭に視認して悪寒戦慄。
とっさに両腕で全身を抱いた。
警官「どうした。顔面蒼白だ」
うつ向く警官は恐怖心を誤魔化して男を案じる。
相棒「へへ、ちょっとばかし扇風機の風で冷えちまったみたいだ」
神父「風邪には気を付けろやい」
馬鹿に笑って、神父が男の背中を擦りむくんじゃないかというくらい激しく擦ってくれた。
なのに寒気は増して、男は全身を抱く両腕に力を込めた。
肌に爪が食い込むほどだ。
幼女「ダルディターニャ。ポルテモンタマチャリアヌ」
神父「さっそく診察するって」
警官「まずはお前からだ」
警官は親切と男の背中を押してやった。
相棒「この悪徳警官め!俺を売るな!」
とんだ有り難迷惑だと怒鳴るも、獲物は男に決まったようだ。
幼女は音もなく素早く接近して男の腕をバリバリと強引に引き剥がすと、ぎゅっと抱きついてよじ登り、胸にぴったりと耳を当てた。
相棒「聴診器はないのか!」
神父「あるわけないやん。シャーマンやで」
相棒「ちっくしょおおお!!」
男の心でウルトラ級の衝動が逆巻く。
幼女に、ぎゅっと、抱きつかれたのだ。
こんな酷い目に合えば誰だってそうなってしまおう。
暴れる衝動は竜巻になって喉を昇り、男はウッと呻いた。
目を見開き歯を食い縛って頭を小刻みに震わせる。
ここで警官がチラ見する。
恐怖の惨劇を前にした彼は、あっという間に悲鳴を上げて飛ぶようにドアにしがみついた。
警官「開けてくれ!開けてくれよ!」
どれだけ叩かれてもドアはビクともしない。
一方で男も逃げ出そうとしていた。
このままでは衝動に負けて幼女に乱暴してしまいかねない。
抱っこして、腕が疲れるまで高い高いがしたい。
しかし、それをやってしまうことは決して許されない。
なぜなら男は幼女の家族ではなく、ましてや仲良くもなく初対面なのだから。
ミト「ニャルメティ」
拷問のような診察が終わった。
ミト「チアトロペナドカ、ソレマトゥイ」
神父「そこに座ってやって」
かに思われたが、どうもこれからが本番らしい。
男は鼻をすすって頭を振り、嫌々、自己防衛のために体育座りで指示に従った。
警官「ひい……!」びくっ
警官が怯えるのも当然だ。
幼女はストンと膝を曲げて屈むと、容赦なくチークキッスで男に食らい付いた。
吸盤みたいにピタッと頬を合わせた。
神父「熱を測っとんねん。シャーマン流やけどな」
憎いことに、神父は短い顎髭を撫でながら平然と言った。
タマランテによる一瞬のチークキッスとは比較にならない絶体絶命の威力があるというのに。
闇夜の襲撃でヴァンパイアが吸血するようなチークキッスは命を奪う危険がある。
幼女の柔らかな頬、その牙は冷たい。
男から温もりが奪われていく気がした。
幼女は香木の魅力的な香気を纏ってもいた。
非情にも心まで奪おうというのか。
空っぽになるまで全てを奪い尽くそうというのか。
神や精霊の助けを得られない哀れな男は見苦しく鼻の穴に指を押し込んだ。
相棒「俺は負けないぞ」
幼女が離れた。仕留め損ねたのだ。
男は瑞穂の国で叩き上げた鋼の意思で耐え凌いでみせた。
ミト「ニーマヤポイ」
神父「風邪っぽいって」
警官「きゃっ!」
相棒「惚ウィルスに感染したのか……この……俺が……」
防ぎようのない不意討ちを後頭部に食らい、脳がグワングワンと揺さぶられた。
遅れて視界が揺らぐ。体が前後に揺れる。
間もなく衝撃を受けた。
あの香木をお土産に買って帰ったらみんな喜んでくれるかな。
男の意識は断ち切られた。
相棒「ここは?」
目が覚めると夜だった。
部屋から漏れる明かりで、窓の向こうに木葉だけが見える。
病室のような白い室内は至って簡素な作りだった。
ベッド、テレビ、冷蔵庫、それからテーブルに椅子が二つあるだけで広くはない。
警官「ここは予約していたホテルだ。端的に報告するぞ。いいか?」
相棒「頼む」
警官「お前が倒れて診察は中止。ガリーがおぶってここへ連れてきてくれた。ミトちゃんは父親と帰宅して、ガリーは酒を飲みに行った。以上だ」
相棒「俺は惚ウィルスに感染したんだな」
警官は沈黙した。
男はそれを肯定と捉えて長嘆息する。
相棒「どうしたらいいんだ」
警官「明朝、この島で暮らすフランポワーズ医師が往診に来てくれる」
相棒「おお……神よ……」
男は突然、嗚咽を漏らすと、半身を起こして窓の外へ弱音を吐き続けた。
警官「目を覚まして嘔吐。症状の悪化が早い」
警官はミニフォンでメモを取りながら男の背中を擦ってやる。
しばらくして、段々と落ち着いてきた男はまたベッドに倒れた。
相棒「ミトちゃんはご飯食べたかな?」
警官「熱が上がっている、と」ぽちぽち
相棒「いちいち言わないでくれ。混乱しているんだ」
警官「悪かった。落ち着け」
相棒「お前はいいよな。いやズルい」
警官「悪かった。悪かったよ。あの時のことは謝る」
長い沈黙の後、男が腹が減ったと言うので、警官は近くの飲食店に連れて行ってやることにした。
ガリーに教えてもらった飲食店は、ビルのなかに詰められていた。
人の出入りが多く、店の前で賑やかに談笑する島民達もいる。
その活気に男の表情も少しは明るくなったが、女児が走るのを見て顔のパーツ全てが弛んでしまった。
ずいぶんと老け込んだ男の腕を引いてエレベーターに乗り込み、目的の階へ上がる。
すぐ目前にあるドアを押してお洒落な店内へ入ると、程々の広さに丸テーブルが並んでいた。
席が一つ空いていたのでそこに案内してもらう。
警官「ここに餃子に似た料理があるらしい」
相棒「へえ」
警官「美味いといいな」
相棒「うん」
警官は水を持ってきた店員にガリー神父が進めてくれた料理を頼んだ。
警官「さて、退屈しのぎにマートン教について教えてくれよ」
相棒「だるい」
警官「そう言うなって」
相棒「マートンという義人が信仰対象。羊と人間を合わせた見た目の神様で、義人とは人に尽くす聖人のことだ」
警官「それで?」
相棒「彼と同じように人に尽くすのが信者の務め。ボランティア団体とでも思えばいい」
店員が、まず酒を持ってきた。
木製のジョッキにたっぷりと酒が注がれている。
アルコールの匂いを嗅いで男の目に生気が戻った。
相棒「いいのか!」
警官「これはミード、蜂蜜酒だ。地元では有名な体にいい酒らしい。惚ウィルス感染者に対しても効果があって、適度な甘さが興奮を沈め、酔いは幼女の魅力を誤魔化してくれるんだと。まあ、鎮静剤みたいなもんだろうな」
相棒「乾杯!」
男はグイグイと酒をあおいで、満足そうに微笑んだ。
次に料理が運ばれてくると、子供のようにはしゃいで喜んだ。
相棒「水餃子みたいなこれは何だ!」
警官「ピエロギ。味付けした肉やキノコが包まれているらしい」
相棒「美味い!」
警官「元気が出てきたじゃないか。その調子だ」
相棒「礼を言う。体調が良くなってきたみたいだ」
ところがホテルに戻って、さあ眠ろうと目を閉じたとき、ミトちゃんへの想いが前触れなくぶり返して、男は朝まで熱にうなされることになった。
ミトちゃんと散歩したり遊んだり食事したりする悪夢を見て、寝ては起きてを繰り返す。
ベッドの上でのたうち回りながら孤独に病と闘い、心は磨耗して体は疲弊して、朝日が顔を出した頃になってやっと気絶するように眠った。
それからニ時間ほど経って、朝食の誘いに警官が男の部屋を訪ねた。
警官は男がイビキをかいて眠る姿を確認すると、そっと部屋を後にした。
警官「マジかよ……!」
警官がホテルを出て木漏れ日のなかをご機嫌に散歩をしているところ、向かいから幼女が歩いてくるのを偶然に発見してしまった。
出会いはいつだって突然なのである。
警官「ここは幼女のテリトリーだったのか。まずい。見つかったらタダじゃ済まないぞ」
そこで咄嗟に木の裏に隠れた。
蝉のように張り付いて無事にやり過ごすことをミーンミーンと呟いて祈る。
ミト「ヴェルディモーテ」
幼女奇襲。
警官「ああ……!」
幼女が警官の腰を平手打ちすると、彼の腰は砕けて、彼は膝から崩れ落ちた。
オロシガネのような木肌を体重をかけてずり落ちた彼の左頬は、細かい擦り傷でいっぱいになった。
ミト「ヤレ、ンテアポリマロ」
まるで「こっちを見ろ」と脅しているみたいだ。
幼女は警官の正面へ回り込もうとする。
警官はそれに合わせて顔を反対に向けた。
幼女が右なら左を見て、幼女が左なら右を見た。
それを数回続けると、我慢ならないと幼女が警官の頭を鷲掴みにして木肌にグッと押さえ付けた。
幼女は大胆で不敵な性格だった。
強引な攻撃を受けて諦めた警官は、肩で息をして死の瞬間を待つ。
ファーザー「ゲランゼ」
そこへ救いの手が伸びた。
幼女を警官から離し、彼の腋に手を入れて力任せに持ち上げた。
とんでもない怪力の持ち主だ。
恐る恐る振り返ると、オールバックヘアースタイルの厳つい顔をした大柄のシャーマンが警官を見下ろしていた。
警官「ミトちゃんのお父様……ヴェルディモホホホ」
彼の丸眼鏡の奥にある深海のような蒼い瞳に溺れそうになる。
笑って誤魔化すしかない。
威圧的緊張感に体は強張るまま。
ファーザー「マウクス、ヴォルダーナ」
ファーザーの岩のような手が警官の頬に触れる。
傷を心配してくれているようだ。
ファーザーは、ついて来いという風に腕を下から上に大きく振った。
警官は頷いて指示に従うことに決めた。
ふと、違和感に気付く。
ミト「マリャ」
油断ならない幼女だ。
風のように警官の手を掴んでいた。
絶対に逃がすものかという意思を握力からヒシヒシと感じる。
警官の膝が大笑いする。
ミト「カーリヤー」ぐい
警官は無理矢理に手を引かれて、とても情けない、なよなよした歩き方で二人について行った。
パトカーに連行される犯人の気持ちが分かった気がする。
やっぱり諦めるしかないのだ。
法廷に連行される犯人の気持ちが分かった気がする。
罪の意識には抗えないのだ。
別に罪は犯していないけれど、何となく分かったのだ。
警官「どこへ連れて行かれるんだ?」
数分もしないうちに一本のビルに着いた。
ビルはどれも同じ見た目で、個々の判別は看板に頼るしかない。
ゆえに、この国の言葉が読めない警官にとっては不安で仕方なかった。
警官「良かった喫茶店か」
落ち着いた音楽が流れる店内はコーヒーの香りで充ちていた。
それだけでホッと一安心する。
ファーザーが迷いなく向かった席には清潔感のある男性がひとり座って新聞を読んでいた。
白衣と長方形の鞄から見てフランポワーズ医師で間違いないだろう。
幼女は父親と共に医師を出迎える途中だったのだ。
ファーザーが挨拶すると、医師は返事をするよりも先に警官の顔を見て驚いた。
傷だらけなのだから当然の反応だ。
警官を椅子に座らせて、ささっと傷の手当てをしてくれた。
ミト「メイワン」すっ
幼女がメニューを差し出す。
その心遣いに傷の痛みが増した。
左頬がひきつっているらしい。
ファーザーに気づかれる前に指で口角を下げた。
ミト「ミャオ!」
医師とファーザーの会話をガン見することで幼女を視界から外す。
その苦し紛れの策で忍んでいるところへ、色々なベリーを山盛りに乗せたタルトが運ばれてきた。
ミト「ミャオ!」
もう一度、幼女が吼える。
父親に「みてみて!とてもおいしそう!」そんな喜びを伝えているようだ。
しかしチラ見してみるも、幼女の表情に変化はなかった。
幼女が声を上げる度にトキメキが心臓を突き刺すのに、そんなギャップ萌えまで見せられたら、もう堪ったものではなかった。
警官はサングラスを持ち歩かなかったことを後悔しながら股肉にフォークの先端を押し付けるのだった。
警官「というようなことがあった」
相棒「それは大変だったな」
男は警官が持ち帰ってくれたベーグルを食べ終えると、ただちに着替えて医師を迎える準備をした。
それでも、幼女を迎える心の準備だけは間に合わなかった。
神父「おはよーさん!遅れてごめんな!」
相棒「酔い潰れてただろう。俺が言うのもなんだが、しっかりしてくれ」
神父「気い付けるわ。許したってや」
相棒「はいはい。それよりも昨日は世話になったようだ。ありがとう」
神父「ええんやで。あんたはボスやからな」
ノックがあって男が返事をすると、医師が一人で部屋に入って来た。
男はつい、幼女が後ろに控えているのではと期待してしまう。
神父「今日から治療始めるって。でも、ミトちゃんはおらんから安心して」
男は心底ガッカリした。
会いたくて恋しいのに会えないなんて。
なぜ幼女を自分から引き離すのか。
幼女に会いに来たのにこの対応は何だ。
男は憤懣遣る方無い眼差しを警官に向けた。
警官はそれに気付いていない。
神父「幼女セラピーするらしいで」
相棒「え?なに?」
神父「お巡りさんも一緒にやったらええって」
警官「ちょっと待て!俺も一緒てどういうことだ!」
医師がミニフォンを操作する。
電話はトゥーコールで繋がり、懐かしい声が聞こえてきた。
博士「聞こえるか馬鹿たれ」
相棒「博士!て、誰が馬鹿たれだハゲ!」
博士「このわしに向かってハゲだと!せっかく助けてやろうというのに!」
相棒「ごめんごめん。助けて」
博士「お前ともあろう者が本当に情けない」
相棒「もういいから。はやく助けてください」
博士「お前たちはY細胞の発現に期待してそこに向かったらしいな」
相棒「そうそう」
博士「いいか。Y細胞というのは、免疫細胞が魅力による電気的刺激を受けて誤認活動したことで、突然変異から生まれたものだ」
相棒「難しい話は苦手だって何回も言ってるじゃないですかー」
博士「つまり幼女の魅力による刺激は、必要不可欠な要素だということだ」
相棒「それで?」
博士「その島にいる幼女を総動員してお前たちと面会させる」
警官の肩が跳ね上がる。
男は鼻で笑った。
博士「その数、四十三体」
相棒「やめてくれ!そんなことしたら死んじまう!」
博士「ははは!お前のことだ。どうせ一か八かの賭けで行ったんだろう」
相棒「くっ……!だからって無茶な賭けだ!それに俺は賭けに一度」
博士「一度負けたから何だ?お前は尻尾を巻いて逃げるような弱い男じゃないだろう。いつだって諦めが悪く、いつも努力を怠らず、いつまでも幼女を思い遣り、そうして、そうしてわしに勝ってみせたじゃないか」
オパンティヌス博士は力んで語る。
怒っているようでもあり、励ますようでもあった。
博士「情けないことばかり言うようなら、かの任務は降りてもらおう」
その言葉を聞けば踏ん張るしかない。
男にとって、かの任務は最後と決めている大事な任務なのだ。
相棒「分かりました。やってください」
博士「うむ。それでいい」
警官「大丈夫か?」
相棒「お前こそ。やれるよな」
博士「最後にY細胞について話しておくことがある」
相棒「なんですか?」
博士「Y細胞というのは、他の免疫細胞と融合してそれを活性化させる性質がある。それによって免疫力が増して、人はより健康的になる。しかしだ。これは一過性の変異に過ぎず、幼女の魅力の落ち着きと共に自然消滅する可能性が高い」
相棒「それって意味ないじゃないですか」
博士「それが今回は、遺伝子へ後天的に形質が獲得されているのが確認された。免疫細胞の強化は継続すると予測される。また、幼女が成長した女児からもY細胞は見つかっている。これも今までにないことだ」
相棒「何だかよく分からなくなってきた」
博士「恐らくこれは、人類が進化するために必要なプロセスとして太古から繰り返されてきたことだ。そのために幼女は生まれ、その度に人類は免疫力を高める進化を繰り返してきた」
相棒「じゃあ、これからも?」
博士「いいや。免疫細胞の強化が継続するならこれで進化は完成だろう。トキメキに耐性がついたことでキュン死にもやがてゼロになり、これから幼女が生まれることもないはずだ」
相棒「じゃあ、もう幼女が辛い思いをすることはなくなるんですね」
博士「真に悲劇の終幕と言えよう」
相棒「良かったあ!」
博士「それでは頑張りなさい。お前も進化するときだぞ」
相棒「はい!頑張ります!ありがとうございました!」
博士「この研究はそこにいるドクターフランポワーズ氏による功績が大きい。彼に任せればキュン死にすることはないと言っておく」
そこで電話は切られた。
礼を言われるのが恥ずかしいのだろう。
博士らしい不器用な愛情だった。
相棒「ガリー。ドクターに伝えてくれ」
神父「なんや?」
相棒「例の動画を持っているなら見せてもらいたい」
神父「本気で言ってんの?」
相棒「惚ウィルス感染症を早く治療したい」
神父「動画の視聴は感染して数日は危険や言うてるで。一週間くらい安静にして、熱が落ち着いたときに見るのが一番ええ言うてる」
相棒「そんなに待ってはいられない」
男は必死の形相で食い下がる。
その鬼気迫る表情を見て、ドクターは仕方なく動画を見せてやることにした。
相棒「お前も見るか?」
警官「当然だ。俺はミトちゃんと手を繋いだ男だぞ」
強がりだった。
でも、ここで弱さを見せるわけにはいかない。
自分のためにも。彼のためにも。
そして、幼女のためにも。
警官は相棒の隣に腰を落とす。
大人の体重は布団に圧力をかけて、二人のおじさんは自然と肩をくっつけて寄り添う形になった。
相棒「離れてくれ気色の悪い」
警官「仕方ないだろう。さっさと再生して終わらせればいい」
相棒「そうだな。そうしよう」
男は催促してドクターの手からミニフォンを奪うと腰を浮かせたまま即座に再生を押した。
男がドシッと座り警官の尻が浮く。
二人は、より密着して動画を凝視することになった。
相棒「弟のコンドリオンくんだ」
警官「状況分析するに、姉が弟の面倒を見ているのだろう」
相棒「こんなに刺激的なホームビデオは見たことがない」
場所はリビングだろう。
姉のミトちゃんが弟のコンドリオンくんにご飯を食べさせている。
一歳を迎えたばかりのコンドリオンくんの食事はまだ離乳食だ。
テーブルの上に並べられた食器には、母親が栄養バランスを考えた色とりどりの離乳食が適量入っている。
ミトちゃんは、それをランダムに選択してスプーンで掬い、左手を下に添えてコンドリオンくんの口へ運ぶ。
コンドリオンくんは離乳食を磨り潰すように滑らかに咀嚼する。
ミトちゃんは撮影者であろう母親の笑い声を聞くと、こちらを向いて微笑んだ。
微笑んだのだ。
無表情を貫くミトちゃんも家族だけの空間では笑うようだ。
それは幼女らしい、あどけない笑顔だった。
弟のコンドリオンくんも姉の笑顔を見て笑った。
姉は、弟の口元に垂れる離乳食をウェッティーで優しく拭ってやる。
そして再びこちらへ向き直り、ミトちゃんは微笑んだ。
神父「そこまでやボス」
言うが早いか、ドクターが男の手からミニフォンを取り上げた。
男は反射的にムキになる。
相棒「何をするんだ!」
神父「そない興奮せんで」
神父は全力で男の肩を押さえた。
男は今にも殴りかかりそうな勢いで憤慨している。
神父「今のボスは冷静を欠いて逆上しとる」
相棒「何だと!もういっぺん言ってみろ!しっぺだけじゃすまないぞ!」
男はしっぺ返しをしてやるぞと脅す。
神父は困った顔しながら説得を続ける。
神父「トキメキにのぼせとる言うてんねん。このままやと本間にキュン死にするかもわからへん」
キュン死に。
男はその言葉にギクリとする。
神父「せや。落ち着いて。キュン死にするわけにはいかんやろ」
相棒「ああ。こんなところで死んでたまるか」
頭を抱える男の隣でドクターが警官の顔を触診する。
横目で見ると、医師は頭を振って残念そうに顔をしかめた。
相棒「どうかしました?」
神父が仲介して通訳する。
ドクター「彼の顔を見たまえ」
相棒「笑っている……?」
警官の顔は、まるでお花畑を飛び交う蝶々をうっとり眺めているみたいな笑顔だった。
ずっと向こうの壁を見つめ、乙女のようにまばたきしている。
ドクター「表情筋が麻痺して硬直してしまっている」
相棒「ああ……!」
男は自分の犯した罪の深さを悔恨する。
胸がズキズキと痛み気が遠くなる。
幼女の魅力とは真逆の衝撃だ。
ドクター「自分に自信を持つことは大切なことだ。しかし、同時に退き時を見極めることが大事だ」
相棒「すみません。俺は自惚れて過信していました。まさか、こんなことになるなんて」
ドクター「医者として止めることが遅れたことを謝る」
相棒「そんな、先生は悪くありません」
男はすっかり慚愧して背中を丸めた。
ドクターは慰めるように男の肩を叩いて部屋を出て行った。
翌日、男は笑顔が素敵な警官と先生を待つ。
神父「治るよう神に祈ってきたで」
警官「あになおう」
喋ることは出来るが、舌がうまく回らず言葉が聞き取りにくい。
相棒「すまなかった」
警官「ひにするなっへ」
気にするなと言われても、道化となってしまった警官の顔を見るたびに罪悪感が胃の辺りを圧迫する。
食事するときにうまく食べることが出来ずポロポロと食べカスを溢す様は本当に気の毒だった。
せめての償いと、ミトちゃんがコンドリオンくんにしてあげたように、男は彼の口元を何度だって拭った。
ノックの音がした。素早く四回。
意識が現実に引き戻されて、なお男を苦しめる圧迫感が増した。
あまりの緊張に吐きそうになる。
神父「幼女セラピーの時間や」
扉が開いてドクターフランポワーズが現れた。
その隣に初めましての幼女がいた。
彼女の三つ編みのように全身が捻って編み込まれる錯覚を、男は意地で耐える。
ドクター「お見舞いだ。リラックスして、彼女達の思い遣りを受け取ってほしい」
幼女が「よろしくね」と恥ずかしげに小さく頭を下げた。
ドクター「では、幼女セラピーを始めよう」
その一日は、夢に出るほど過酷だった。
幼女達はそれぞれ、今までで一番楽しかった思い出を語ってくれた。
語るだけじゃなく、時には思い出の写真や思い出の品を見せてくれた。
おっさん達のショボい想像力は刺激を受けて強くなり、まるでそこにいるような臨場感たっぷりのドラマを脳内に再現した。
どれも彼女達みたいに魅力的で素晴らしかった。
そのため疲労も尋常ではなく、ドクターストップがちょくちょく挟まれた。
なので幼女セラピーは日が傾く夕方になってやっと終わった。
その後YOUJO43は、神父の計らいで、彼と共に教会で開かれる夕食会に向かった。
相棒「ガリーは神父だけあって気遣い上手だ。とても頼りになるし助かる」
男は段ボールを畳みながら感心している。
警官もベッドの上で同感だと頷いた。
警官「それにしても用意周到だな。折り紙と本までわざわざ輸入するなんて」
相棒「大華の国では幼女の生息数が多かったし、移動も広範囲でプレゼント出来なかった。それが悔しかった。でもここは生息数が少なくて島だから配りやすい。そこで事前に頼んでおいたんだ。ちょうどいい時に届いてよかった。しかも、まとめて配れたし大満足だ」
警官「おいおい。お前は折り紙商人になるつもりか?」
幼女セラピーのおかげで警官の表情はだいぶ和らいだ。
冗談を言えるほど気楽だ。
適度な刺激を繰り返してトキメキに対する適応力を高めたのである。
相棒「それもいいけど、やっぱりパティシエだな」
警官「格好つけやがって」
相棒「格好いいから当たり前だ」
ミト「マリャ」
油断ならない幼女だ。
風のように警官の隣をキープしていた。
絶対に逃がすものかという意思を瞳の奥からバチバチと感じる。
警官の表情筋は突っ張って引きちぎれそうになった。
ファーザー「マリャ」
相棒「誰……ああ!ミトちゃんのお父さんですね!ヴェルディモーテ!」
段ボールを外に運ぼうとドアを開けっ放しにしていたのが災いした。
父親を連れた幼女に易々と侵入を許してしまった。
警官「初めましてになるだろう」
心配したミトちゃんに顔を揉みくちゃにされても警官は平静を装って話す。
警官「知っての通り。この島のシャーマンの長だ」
相棒「ビビった……」
警官「顔に出てるぞ」
相棒「あんたは顔が滅茶苦茶だぞ」
ファーザーは「二人もぜひ食事会に」と誘いに来てくれたのだった。
ミトちゃんは責任感が強いのか、おじさん二人の間に入って両者と手を繋いで、導くように歩いた。
目的の真っ白な教会はアーチ状の石橋を渡り、なだらかな坂を進んだ丘の上にあった。
門をくぐり扉を開けて中へ入る。
ステンドグラスから差す夕陽の光と夜の闇が混ざる礼拝堂を左に抜けて、キラキラ輝く水を吐く大理石の噴水を眺めながら中庭を通り、奥は大食堂へと到着した。
相棒「ここは楽園かも知れない」
青空の中央に描かれた太陽の周りを雲みたいに羊が浮かぶ天井には眩いばかりのシャンデリアが吊り下げられている。
壁には穏やかな草原が広がり、実り豊かな木々を象った緻密な細工のレリーフが等間隔で並んでいる。
そして部屋には、映画でしか見たことのない銀の長テーブルと椅子がきっちり揃えてあり、テーブルには真珠のようなクロスが敷かれ、その上には山盛りのご馳走と、多彩な色を巧みに扱った模様が美しい食器が整えられていた。
なにより注目すべきは、楽園でさんざめく幼女達だろう。
警官「あまりに綺麗だ」
警官は短く呟いた。
ヨダレが拭いても拭いても溢れて止まらない。
ご馳走の匂いのせいだけでない。
幼女達があんまりにも美味そうに料理を貪るから共感してしまっているのだ。
時折、楽しそうに会話する幼女達の声に耳をそばだてながら男はきく。
相棒「これって奇跡?」
目を爛々とさせる警官は両膝を落としガッツポーズを取ると、嬉しさのあまり全身を揺らしてヘッドバンキングする。
男もミトちゃんもびっくりして距離を取るほど激しい。
警官「これだよ!これこれ!」
幼女大集結。
炭素原子が共有結合してダイヤモンドを形作るように、幼女が集結すれば魅力は立体的に結合して、ダイヤモンド以上のトキメキを形作る。
それは「奇跡」と呼ぶに相応しい。
さらに、炭素原子に窒素原子が混ざることでブラウンダイヤと変化するように、ミトちゃんがそこに加わることで特別な輝きに変化する。
警官「それはもう言葉に出来ない!」
最後にそう叫んで警官は力尽きた。
反響した叫びは会場のみんなに届いて視線が返ってきた。
あんなにも賑やかだったのに、一瞬にしてしんと静まり返る大食堂。
皆を心配させまいとしたファーザーが、手早く警官を引きずって退場した。
神父「大丈夫?何かあったん?」
相棒「あいつは大袈裟なんだ。それより、俺が挨拶を終えたら仕切り直してくれ」
神父「りょ」
男は一礼して皆に無礼を詫びると、続いて協力の感謝を伝えた。
それをガリーが丁寧に通訳してくれた。
そうして短い挨拶を終えると、皆から大きな拍手を頂いた。
温かく迎えられた男は鼻の頭をかいて、最後にもう一礼した。
ファーザー「君は精霊を信じているかね?」
ミトちゃんとファーザーに挟まれて食事をしていると、唐突に信仰心を試された。
ガリーが近くにいないので、男はミニフォンによる通訳に切り替えた。
相棒「信じます」
ファーザーは手に持っていたフォークとナイフを丁寧に置くと、ワインを一飲みして口をナプキンで拭った。
ファーザー「シャーマンは血族でね。私の娘であるミトも、息子のコンドリオンも当然シャーマンだ」
相棒「ということは精霊と交信が出来る。これは事実ですか?」
ファーザー「精霊を信じるのなら疑うこともないだろう」
相棒「そうですね。失礼しました」
ファーザー「しかし、まだ未熟だ。だからこうして琥珀のブレスレットを身に付け、宝石の力を借りている」
ミトちゃんは、どやっ、とブレスレットを見せてくれた。
よく見ると神秘的な力を感じる気がする。
琥珀の複雑な模様のせいだろうか。
ファーザー「私は娘を厳しく躾ているつもりだが、何か失礼はなかったかね?」
相棒「いいえ」
なるほどと思った。
ミトちゃんが表情を変えないのは真面目だから。
ミトちゃんが先導してくれるのは責任感を持っているから。
両方とも父親の厳しい躾からきていたのだ。
しかし、それだけではない。
ミトちゃんがシャーマンと謹厳実直に向き合っている高潔な精神が態度に表れているのだ。
男はそれで間違いないと納得した。
ファーザー「私は娘を立派なシャーマンにしてやりたい」
相棒「立派です。たくさんの人を救いました」
ミトちゃんの頭の上からマーザーが否定する。
娘と顔も髪型も雰囲気も魅力までまるでそっくりだ。
マーザー「いいえ。あれはホームビデオの影響よ。実際に儀式を行ったのは今回が初めてなの」
ファーザー「実のところ、娘がトキメキナースに選ばれたのは偶然なんだ」
マーザー「夫が風邪で寝込んだとき、まさかと思ってドクターフランポワーズに駆けつけてもらったの。でも、ミトが興味本意で部屋を覗いちゃって。それでドクターは惚ウィルスをもらっちゃったのよ」
相棒「なんと。それは大変どころじゃなかったでしょう」
マーザー「ええ。ミトに会わせてくれと何度も訪ねてきたわ。でも、もちろん会わせることはなかった」
ファーザー「紅白が百以上も頑丈な柵を設置しても乗り越え、見張りを何人も倒して、傷だらけになってまであいつは娘に会いに来た。正直気味が悪かった」
マーザー「でも、可哀想でしょう。だからホームビデオを貸してあげたの」
ファーザー「あの時は余計なことをしたと思ったが」
マーザーがカッと怒る。
まさに稲妻。
マーザー「そんな風に思ってたの!」
ファーザー「いや、違うんだ」
マーザー「何が違うって言うのよ!私はあの人を思って、それがいけないって言うの!」
ファーザー「有名なドクターとはいえ男だから」
マーザー「彼はロリコンなんかじゃないわ!真面目な人よ!素敵な奥さんとの間に娘が産まれたばかりなのも知っているでしょう!下品なロリコンと一緒にしないで!」
男は耳が痛くなってきて逃げようとしたが、ミトちゃんが振り向きもせず手を掴んで離さない。
ファーザー「まあ、過ぎたことはもういい。とにかく娘が儀式を行ったのは今回が初めてだった。苦労をお掛けして済まない」
相棒「適切な診察でしたよ。俺が弱かったのが悪いんです。また後日、中断した儀式の続きをお願いしてもいいですか?」
ファーザー「もちろんだ。明日でもいいかな」
相棒「いい?」
ミト「ニャ」
ファーザー「決まりだ」
相棒「あの、明日は診察でなく治療になりますよね。具体的にはどういった風な治療を行うのでしょう」
ファーザー「精霊との交信で歌を聴かせるといいと伝えられた」
相棒「え!あの時に交信していたんですか!」
ファーザー「ああ。一心同体だった」
相棒「その精霊とは、どんなものでしょうか」
ファーザー「娘に降りたのはマートン様に遣える女の子らしい」
相棒「幼女では?」
ファーザー「その通りだ。よく分かったね」
精霊とは、もしかしたらお菊さんのように長い時を生きた幼女のことかも知れない。
彼女達は神様に仕えて、神様に生まれ変わるために頑張っているのかも知れない。
もし、その日が来たら家族と再会出来るのだろうか。
人は命尽きたときどうなるのだろうか。
神様とは精霊とは何だろうか。
考えても分からない。理解出来ないことばかりだ。
そう思う心さえ謎に未知ている。
相棒「目を覚ましたか」
警官「ここはまだ教会か?」
相棒「そうだ。借りた一室だ」
警官「何時間寝ていた?」
相棒「四十分くらい」
警官「食事会はどうなった」
相棒「そろそろ終わる。最後に幼女たちによる聖歌合唱が披露される。地元で古くから親しまれている歌らしい。羊を数えるような歌で、眠くなりやすいことから子守唄によく歌われるそうだ」
警官「それ、形を変えて瑞穂の国に伝わっているな」
相棒「多分あれの元ネタだ。お前も聞いてみるか」
警官「仲間外れは嫌だな。仲間なら置いていくなよ」
大食堂でグッスリ眠る警官を置いて、男は帰り道に神父と適当なビルを選んで酒場に立ち寄った。
明日に備えてハチミツ酒で体の中を清めておく。
ホテルに戻ったら風呂に入り、体をあちこちぶつけながら体の外もしっかり清めた。
相棒「よく眠れたか」
警官「お陰様でホテルより快適だった。隣でガリーが寝ていた以外は」
神父「様子見に行ってそのまま寝てもうたんや。許したってや」
警官「うう……まだ寝覚めが悪い」
三人は集合して、初日に訪れたビルにやって来た。
あの日とは違って身も心も軽い。
エレベーターで上へ、木の廊下を抜けて、父親から贈られた幼女専用の儀式部屋に突入する。
紳士らしくノックはしてやったし、侵入は静かに行った。
あの日とは違い強風の歓迎はなかったが、幼女は変わりなく一人で堂々と待ち構えていた。
神父「さ、そこにある椅子に座って」
指示に従って着席する。
幼女との距離は二歩半というところか。
神父「じゃ、頑張って」
神父が退室した。
遠く懐かしい、母親が退室して診察室に置いていかれた子供の頃の不安定な気持ちを思い出す。
ミト「メーリャーサー」
にわかに幼女が唸る。儀式が始まる。
男は部屋を満たす香気に心を預けた。
警官「あれは何だ?俺達を叩くつもりか?」
相棒「恐ろしいこと言うな。あれは儀式用の楽器だ」
幼女は棚の引き出しから小さな太鼓を取り出した。
でんでん太鼓によく似た形で鈴が二つ結ばれている。
幼女はゆっくりと移動して二人の前に立つと、それをマイクのように構えて、ふわっふわっとスカートを揺らしはじめた。
立てた人差し指を唇に当てて静聴を合図する。
そして、歌い出す。
男たちの胸がトクンと共鳴した。
ララバイ調のゆったりしたメロディーは、真綿で締め付けるように男たちの心を縛っていく。
歌声は脳がとろけるほど甘い。
理解出来ぬ言語で綴られた歌詞は呪文となって二人の心を惑わす。
それで意識が剥奪されたようだ。
すっかり魅了されて夢うつつになる。
幼女はリズムに合わせて太鼓を手のひらで叩きはじめた。
男は、それに合わせて体から何かが抜き取られるのを微かに感じた。
と、突然に歌が止む。
意識が戻った警官が足裏で床をこすり抗議する。
幼女はそれを気にもせず、棚から丸い容器を取り出した。
まるで美容クリームみたいだ。
幼女は橙色のクリームを指に付けて、新たな呪文を唱えながら、まずは警官の顔に独特な模様を描いていく。
柑橘系の匂いがした。
ミト「ランランルン。ランランルン。」
警官が耐えようと顔に力を入れると、いきなり軽いビンタがお見舞いされた。
その不意打ちを見て、男は驚きのあまり飛び上がりそうになった。
椅子が大きな音を立てて、幼女は手を止めた。
怒りを含んだ冷たい眼差しで男を睨む。
その間、七秒。
恐ろしくなってきた警官は表情を変えないよう気を付けて、くすぐり攻撃をジッと我慢することに決めた。
それでも、難しく辛いばかりの我慢に鼻をすすって呼吸が乱れる。
ミト「フラットブレッド。ハニーオーツセサミ。ウィート。ホワイトサンド。ウィッチ。」
顎下をこしょこしょされて、警官はつい気持ち悪い声をあげてしまった。
それが良くなかったのか、幼女は彼の額を八回も平手打ちした。
大人げなく泣きそうになった。
ミト「ショートールグラン。デ。ベンティ。」
鼻先をクリームで包む。
指で挟んでスッと引くように塗る。
警官の鼻は、まだすすり泣いている。
ミト「スモールダブ。レギュラーダブ。トリプルポップ。」
最後に唇を塗って攻撃は止んだ。
警官は長く鼻から息を吐いて「ありがとうございました」と小さく呟いた。
続けて、男も同じ攻撃を受けた。
しかし男は警官と違って、額を叩かれようとも、理髪店で顔の毛を剃られるときみたいにリラックスしてやり過ごした。
幼女は終わりに棚からタオルを取り出して手を拭くと、クリームもタオルと一緒にないないした。
そして再び太鼓を持って歌い出す。
ミト「メーリャーサー」
にわかに幼女が唸る。儀式が終わった。
警官の目からは涙が零れ落ちた。
ミト「ミャーオ」
幼女が鳴いて合図すると神父が扉を開けて入ってきた。
神父は真っ先に幼女を労った。
神父「二人もお疲れさん」
相棒「Y細胞は発現しただろうか」
神父「それは採血して調べてみんと分からんわ。それより、ミトちゃんがボスに伝えることあるって」
男は向き直り、幼女の目線に合わせて片膝を折って屈んだ。
神父「ボスには、まだやるべきことがある、らしい」
相棒「やるべきこと?」
神父「精霊からのお告げや。何や意味あんねんやろ」
相棒「まあ、あるにはあるが。宇宙のことかな」
神父「宇宙?」
相棒「こっちの話だ。気にしないでくれ」
男は持ってきたバッグから折り紙と本を取り出して幼女に手渡す。
相棒「ありがとう。とてもお世話になりました。これは僕ら二人からのお礼です。どうぞ受け取ってください」
神父が言葉を伝えると、幼女は頷いて両手で受け取り、それを胸に抱いて大きく頭を下げた。
ミト「ウィルテ」
相棒「どういたしまして」
幼女は笑わなかった。
でも、踵をとんとんして喜びを表現しているのはよく分かった。
警官も片膝を折って屈むと、お礼を言って敬礼した。
それから二人は幼女を昼食に誘い、午後にはドクターフランポワーズと待ち合わせして採血をしてもらった。
結果が出るのは二日後だと聞いた二人は空いた時間を、島の子供たちと海で泳いだりしてのんびり過ごすことにした。
余計に疲れてしまった気もするが、子供たちと友情を結ぶことが出来たのでこれで良かった。
夕日に照らされる浜辺で友達とかけっこする幼女の笑顔を眺めて、心からそう思った。
ドクター「結果が出た。あなたにだけ発現が認められた」
カフェで落ち合い、席に着いたドクターはさっそく書類を広げて結果を告げた。
警官「やったあああ!!」
警官は合格、男は不合格だった。
男は窓から緑を見つめて現実逃避する。
どうして発現しないのか分からない。
それはドクターにも分からないことだった。
ドクター「博士が進化というからには、いずれ発現すると思われる」
そんな言葉、慰めにもならない。
相棒「こんちくしょうめ!何が足りない!」
握り拳を大腿直筋に落として悔しさに身震いする。
警官は肩に手を置こうとして、引っ込めた。
神父「ま、しゃーない。切り替えてこ」
相棒「そんなにあっさり切り替えられるか!俺には時間がないんだ!」
警官「根拠はないけど、君なら発現しなくても大丈夫だ」
相棒「適当な慰みはいらん。もうおしまいだ」
警官「君には誰よりも愛がある」
相棒「愛で何とかなるものか」
警官「世界を救った」
相棒「もういい。どんどん惨めになる。やめてくれ」
神父「まあまあ。とにかく、惚ウィルスが消えたのは良かったやん」
相棒「……ああ。そうだな」
神父「ほな、別れの挨拶に行こか。ミトちゃんが待っとるさかい」
相棒「ああ」
神父「暗い顔やめてや。ミトちゃん可哀想なるわ」
警官「時間はまだある。元気出してくれ」
男はマグカップいっぱいのミルクセーキを豪快に飲み干して、歯を見せて笑ってみせた。
相棒「ようし!行くか!」
笑顔になれたのは仕事柄よくそうしてきたからだろう。
どんな事情があっても、幼女を悲しませてはならない。
男はまだ腐ってはいなかった。
相棒「これは……!」
ミトちゃんの儀式部屋は一変して神秘さを増していた。
男にとってはディープインパクト級のトラウマがあっちこっちそっちの壁に仕掛けられていた。
幼女は男から折り紙を貰った二日前から今日までの間に、二人と会わない時間を利用して、密かに折り紙を八つ裂きにして壁に貼り付けていたのだ。
それもまだ終わりじゃないらしい。
今まさに目の前で惨たらしい行為は続いている。
折り紙を小さく千切ると、糊で逃げられないようにして木の壁にぺたぺた貼り付けにしていく。
大雑把ではあるが、そうして、花や動物であったりと色々な種のしもべが召喚された。
ざっと見て数十体が客を待っていた。
「お前も貼絵にしてやろうか!」
とシャウトするような禍々しいオーラを浴びた男は忘れようとしていたトラウマを呼び起こされたのだった。
去年の冬。幼女達が生み出した練り切りの怪物。
あれだ。あれを彷彿とさせる。
相棒「ごめん帰る!」
警官「おいおい!いきなりどうした!」
扉はオートロック、それも指紋認証システムなので開くことはない。
ドアノブをどれだけ激しく揺らしても開くことはない。
神父「壊れるからやめて。本間どないしたんや」
男はドアに額を押し付けて白状する。
相棒「幼女の貼絵が恐いくらいに魅力的なんだ」
警官「何だって?」
相棒「天使が悪魔と結託しているなんて、おふくろも教えてくれなかった」
神父「何や訳分からんけど、えらい大げさやないの」
相棒「そうだ外で話そう。近くに公園があったろう。そこに行こう」
これはもう仕方ないということで、一行は近くの公園に移動した。
男は時間いっぱい幼女に遊んでもらうことにした。
そうすることで気が紛れて、もしかしたら鬱積も崩れるかもと考えた。
幼女の魅力は扱い方次第では最高の癒しとなる。
男はそれをよく知っていた。
警官「元気を取り戻したな」
警官は幼女の背中を押して言う。
相棒「自己管理は大切だからな」
代わり、男も幼女の背中を押して言う。
警官「君は弱い男じゃないと博士が言っていた」
相棒「そうらしいな」
警官「俺は警察官だ。いつでも君の味方だと言っておこう」
相棒「言われなくても」
強く幼女の背中を押した。
ブランコが高く舞い上がる。
相棒「分かっている」
やがて、シャーマン幼女と別れる時がきた。
一緒に遊んだりお喋りした時間が短いので胸が張り裂けそうなくらい名残惜しい。
相棒「また遊びに来てもいいかな」
ミト「うん。また遊ぼう」
警官「俺はシャーマンのことがもっと知りたい。今度ここへ来たときは色々と教えてほしい」
ミト「いいよ。もっとお勉強して待ってる」
そこへファーザーがやって来て「娘に良い経験をさせてくれてありがとう」と二人に礼を言った。
それから、忘れ物、と幼女にあるものを手渡した。
それは幼女が手作りしたお守りだった。
可愛らしい羊の顔の羊毛フェルト。
誰から見ても上出来の傑作だ。
幼女からそれを受け取った二人の胸はキュンとトキメキした。
ミト「シャノエ!」
幼女は、とびっきりの笑顔で見送ってくれた。
つい立ち止まりそうになった。
けれど歩き続けた。
つい振り返りそうになった。
けれど前を見つめて進み続けた。
日溜まりを幾つも踏み越えて、白い砂浜に足跡を残す。
桟橋に立って、もう堪えきれず振り向いた。
神父「おーい!」
がっかりした。
神父は兄に酒瓶を持ってきたようだ。
二人には男臭いハグをくれた。
まあ、少しくらいは寂しくなった。
船が海へと滑り出して船乗りが言った。
船乗り「弟が酒まで寄越して二人をよろしくだとよ」
ありがとうガリー
さようならガリー
警官「今日の活動記録はこれでいいだろう」
警官はプライベートジェットに乗り込むと、荷物から超薄型ノートパソコンを取り出した。
そして、忘れないうちにと早々に活動記録を書き留めて、それを警察庁へと電送した。
相棒「後味の悪い活動記録だな」
警官「失敬な!ガリーは素晴らしい神父だったろう!」
相棒「まったくだ。とても世話になった」
警官「そう思うなら余計なことは言わないほうがいい。で、次はどこへ向かっているんだ?」
男はファイルから資料を抜き取って渡す。
相棒「軌跡の国、カルタン」
警官「軌跡って、こっちの字か……え」
相棒「そこにいる幼女よりも他に目的があってな」
警官「ちょっと待て!このプロフィール間違っちゃいないか!」
相棒「アメイシャちゃん。コスプレイヤのようなコスプレじゃなく、正真正銘の王女だ」
警官「どうしてそんなに冷静なんだ。おかしいだろう」
相棒「目的のミイラの所有主が王様なんだ。だからってまさか王女に会えるとは、もちろん俺も驚いたぞ。腹をくだして下痢が止まらないほどにな」
警官「気を付けて読むことにするよ……」
相棒「俺にはもう見せないでくれ。考えないようにもしてるから」
警官「それでミイラとは?」
相棒「実は腹をくだしたのには、もう一つ深刻な問題が関わっていてな」
男は肩を落として、もの悲しそうに語りはじめた。




